「ラウンド5、カァーンッ!」

ゴングと同時に飛び出す美奈子だったが、脱臼した左肩の痛みは徐々に増し彼女を苦
しめていく。動く右手で決死のジャブを繰り出していくが、先程までと比べて鋭さも
正確さも欠けたそのジャブは簡単に乙羽にかわされてしまう。逆にカウンターのスト
レートを喰らうと、美奈子の顔面は鼻血で真っ赤に染まって言ったが、美奈子はダウ
ンする事無くその身を必死に持たせていった。

(くそっ…後少し、後少しなんだ…後一回ダウンが奪えれば…それまでお願いだから
持って!)

乙羽の攻めと左肩の痛みで今にも倒れそうな美奈子の体を勝利への執念だけが支えて
いた。しかし非情にも乙羽の攻めは止む事無く美奈子にダメージを与えていく。片腕
だけではガードもままならずパンチを喰らい続ける展開になっていくと、殴られる美
奈子の顔が段々赤みを帯びて腫れ上がっていった。その姿を見た観客からも美奈子を
案じる声が上がって行く。

「おい…このままじゃ美奈子ちゃんヤバいんじゃないか!?」

「第一、片手だけで試合出来る訳ないじゃないかよ…」

美奈子の身を案じていたのは観客だけではなく、セコンドの春菜もまた同じであっ
た。先程まで乱闘の興奮も手伝って美奈子を罵倒していた彼女であったが、痛々しい
姿になっても試合を続ける美奈子の姿を見ていつしか自然と涙がその目に浮かんでい
た。もはや試合を続けられる状態ではないと感じたのか、思わずタオルを投げ込もう
とするが、それに気付いた美奈子が叫ぶ。

「やめて!私は…私はまだやれるわ!ここで試合を終わらせたりしたら…春菜ちゃん
の事絶対に許さない!」

そう言って自分を睨む美奈子の眼光に春菜は何かを感じていた。その光景を見ていた
乙羽は意地悪く言っていく。

「強がりはよした方が良いんじゃない?これ以上やっても今の美奈子ちゃんには無駄
だと思うわよ!素直に負けを認めなさい!」

しかしその次の瞬間、凄まじい気勢と共に乙羽の左目の辺りに強烈なフックが叩き込
まれた。溜らず乙羽が後退しようとするが、間髪を入れず再び左目の辺りにフックが
叩き込まれると乙羽の悲鳴が会場内に響き渡っていった。

「んあぁぁぁぁぁぁ…」

溜らず後退して目を抑える乙羽。思わずレフリーが試合を中断し乙羽の状態を確かめ
ていく。寛子も乙羽の傍に駆け寄っていくと、乙羽の左目が無惨な程に腫れ上がり、
所々から出血もしていた。

「油断してるんじゃないわよ…まだ戦えるって言ったでしょ!私かあんたがもう一度
ダウン摺る迄は試合は終わらないのよ!」

試合を止めようとする春菜、そして乙羽の一言が美奈子の闘志に火をつけ、微かに
残っていた力を引き出しフックを繰り出させたのであった。左肩を庇いながら今度は
美奈子が乙羽に近づいて言い放つ。

「まだやれるでしょ?ここまで来て試合放棄するなんて許さないわよ!どっちが勝つ
にしろシッカリと決着つけないと終われないわ!」

その言葉に乙羽だけではなく寛子が返していく。

「無理よ…全裸で…しかもこんな目で試合出来る訳無いじゃない…お願い!乙羽さん
を棄権させてあげて…戸向さんだってその腕じゃこれ以上試合出来ないじゃないです
か…お願い!試合を止めて!」

泣きながらレフリーに訴える寛子だったが、その時今まで黙っていた乙羽が口を開
く。

「寛子ちゃん…私なら大丈夫。美奈子ちゃんの言う通り、私が油断してただけだか
ら…目の方だって心配する程酷くないし…さあ、試合を再開して下さい!」

そう言う乙羽であったが、その左目は明らかに物を見れる状態でないのは明らかで
あった。寛子もそれを悟っていたのか、尚も試合を止めてくれとレフリーに哀願す
る。そんな寛子に春菜が近づいていくと腕を掴んでレフリーから離していくと寛子に
語りかけた。

「試合を続行させてあげな。美奈子ちゃんも、乙羽さんも試合を続ける気なら、セコ
ンドの私達はその意志を尊重してあげるべきなんじゃない?無理やり試合を止める権
利は私達には無いんだし、心配する気持ちは分かるけど先輩の意志を無視してまで自
分の勝手な気持ちを押し付けるのは間違ってるんじゃない?」

「でもあなただってさっき試合を止めようとしてたじゃない!それだって先輩の戸向
さんを心配しての事でしょ!?それなのに何で掌返した様な事が言えるの?」

「私もさっきまであなたと同じ様な事考えてた。でもさっき試合を止めるなって言っ
た美奈子ちゃんの目を見た時思ったの。ハッキリとは分からないけど、美奈子ちゃん
は何か決意を固めてる

って。それなら最後まで試合を見届けるのが私の仕事なんじゃないかなって。本来、
試合を見届けるのが役目の癖に感情的になって乱闘したりして、私達の方こそ間違っ
てたんだと思う。だからせめて美奈子ちゃんを最後まで戦わせてあげたいの。だか
ら、あなたにも乙羽さんを最後まで戦わせて欲しい。私からもお願いするわ。」

春菜のその言葉に、寛子も考え直したのか改めて乙羽に声を掛ける。

「私…最後まで見届けます。結果がどうなろうとも最後まで試合を見届けますから
!」

その言葉に乙羽も笑みを浮かべて返す。

「ありがとう。私、絶対に負けないから!」

一方の春菜も美奈子に最後の励ましをかける。

「最後まで気を抜かないでよ!乙羽さん、そんな簡単な相手じゃ無さそうだし…でも
私はどんなに不利な状況でも美奈子ちゃんが勝つって信じてるんだから、その期待を
裏切らないでよね!」

その言葉は一見キツい言い方ではあったが、先程の様な怒りを含んだ言い方では無く
本当の励ましであった。相変わらず肩を庇ってはいたが美奈子も言葉を返す。

「…サンキュー。私だってまだ全然やれるって所を見せてあげるわよ!」

そして向き合う乙羽と美奈子。互いにその目には揺るぎ無い闘志が宿っていた。

「私は…絶対にあなたに勝つ!今度こそ勝負を決めてあげるわ!」

「やれるものならやってみなさい!私だって簡単には倒れないわよ!」

「ファイッ!」

再開と共に美奈子が動く右手で乙羽の顔面を打ち抜いていくが、乙羽も怯まずお返し
とばかりに美奈子の顔面にストレートを叩き込むと隙を与えずバストにもパンチを打
ち込もうとするが、片目だけでは距離感が掴みにくい事も手伝い美奈子がかわしてい
くと逆に美奈子がボディを決めていく。

「ぐふうっ…」

負傷しているとは思えない程美奈子の一撃に威力があった事に驚きつつも、ガードを
固めていく乙羽。美奈子も右手だけで必死に攻めるが乙羽のガードの前になかなか有
効打を与えられず、逆に乙羽の攻勢を許してしまう。只でさえ不利な状況をどう乗り
越えるかとガードしながらも打開策を考えていたが、美奈子はここでどうにか左手を
使う事は出来ないかと考えた。ふと美奈子は負傷した左腕が微かに動くのに気付い
た。脱臼しているとは言え、一度位パンチを放つなら不可能では無い筈。おそらく乙
羽は左手は使い物にならないと思っているのではないか?それならその点を突き、左
手で攻撃を仕掛け乙羽に少しでも動揺を与えられれば、それが思わぬ突破口になるか
も知れない。そこに掛けてみるしかない。美奈子はこの作戦に掛ける事にした。

(やるしかない…この作戦が成功すれば自分に流れを引き寄せられる…!)

そう思い乙羽との距離を置いていくと、痛みを隠す様に気勢を上げながら、必死で左
腕を振りかざしてフックを仕掛けていく。美奈子の予想通り、負傷している左手で攻
撃を仕掛けてきた事に乙羽は虚を突かれた様であわてて頭部のガードを固める。そし
てその瞬間乙羽のボディががら空きになった事を美奈子は見逃さなかった。

(来た…狙い通り!チャンスだっ!)

左腕に走る痛みにも構わず、渾身の力を込めた右腕で乙羽の柔らかいお腹にボディを
決めた。

「ぐぶっ…ぐはあぁぁぁぁぁっ…」

隙を突かれた一撃に乙羽は溜らず態勢を崩して後退するが、美奈子はこのチャンスを
逃すまいとばかりに乙羽の顔面にフックを叩き込むと大きく態勢を崩していく。美奈
子の作戦は見事に功を奏し、勝負は決したかに見えた。しかしその時、乙羽の中で一
つの思いが涌き上がってきた。

(負けない…負けたくない…美奈子ちゃんには…絶対に負けたくない!!)

その気持ちはかつてK-1グランプリの時乙羽が美奈子に対して燃やした思いであっ
た。追いつめられ、勝負が決した様に思えた状況に来てその思いが甦ったであった。
崩れた態勢を必死に持ち直すその姿はセコンドの寛子に何かを感じさせていた。そし
て乙羽は渾身の力を込めた右の拳で美奈子に向かっていく。

「うあぁぁぁぁぁぁっ…!!」

(あれだけ攻めてもまだ倒れないなんて…本当にしぶとい人ね…ふっ…)

そして相対する美奈子の心の中には不思議と驚きよりも、喜びの方が沸きあがってい
た。それはかつてツートップと呼ばれた乙羽には強くあって欲しい、それでこそ倒し
甲斐があるという思いが美奈子の心の何処かにあったからかもしれなかった。もはや
美奈子の心の中ではリベンジではなく純粋に乙羽に勝ちたいという気持ちの方が強く
なっていた。その美奈子が向かってくる乙羽を見て小さく嬉しそうな笑みを浮かべた
事に敵のセコンドである寛子だけが気付いていた。

「この野郎ぉぉぉぉぉっ…!!」

乙羽に負けじと凄まじい気迫を見せて殴りかかる美奈子。そして2人の振りかざした
拳は互いの顔面を見事な程綺麗に打ち抜いた。

「ぐはっ…」

「ふぐぅ…」

お互い血飛沫と共に小さく悲鳴をあげるとその身が前のめりに倒れていく。この両者
ダウンに勝敗はどうなるのかとばかりに会場がざわめいていくが、レフリーがカウン
トを取っていく。

「ワン…ツー…スリー…フォー」

すると美奈子がその身を上げていくと、春菜が呼びかけていく。

「美奈子ちゃん…立ち上がって!今度こそ乙羽さんに勝つんでしょ!お願い!立ち上
がって!」

しかし、春菜の声も虚しく美奈子は大の字になって再び倒れた。そして無常にもカウ
ントは進んでいく。

「ファイブ…シックス…セブン」

対する乙羽はピクリとも動かない。寛子も乙羽に呼びかけるがその声にも全く動かな
い。

「乙羽さん!立ち上がって!絶対に勝つって言ったじゃない!立ち上がってよ!」

寛子の声を掻き消す様にカウントが更に進む。

「エイト…ナイン…」

そして最後のカウントが数えられる。

「テン!」

「カンカンカンカン…」

会場全体にゴングの音が鳴り響いた。しかし乙羽も美奈子も全裸のままリング横た
わっている。そしてリングアナから勝敗に関する説明がなされる。

「只今の試合は乙羽選手と戸向美奈子選手が同時に三度目のダウンを喫し、両選手と
も10カウント内に立ち上がる事が出来ませんでしたので両者同時KOと見なし引き分
けとなりました。」

そのアナウンスに、普段なら会場からはブーイングが起きるところであるが、2人と
も全裸で傷だらけの姿でダウンするその姿に観客達も言葉を失ったようであった。そ
して寛子と春菜が2人の元へ駆け寄る。

「美奈子ちゃん…しっかりして!美奈子ちゃんってば!」

「乙羽さん!大丈夫ですか!?しっかりして下さい!」

2人の呼びかけにも係らず、乙羽も美奈子も意識を取り戻さない。そして2人はリング
ドクターによって応急処置を受けると担架に乗せられてリングを後にする。そして全
裸になってまで激闘を繰り広げた2人に対し何も知らない観客が無責任な歓声を送る
中、2人は医務室へと運ばれていった。





医務室へと運ばれた二人。治療の結果、美奈子も乙羽も3日程の入院生活を余儀なく
される事となった。その結果に寛子も春菜も胸をなで下ろした。そして翌日、意識を
取り戻した乙羽と美奈子は試合が引き分けに終わった事を聞かされたのだった。



「引き分けか…あそこまで乙羽さんを追いつめてたのに勝てないなんて…ホント情け
ないよね私って…皆も私の事情けない奴だって思っただろうな。」

負傷した肩を固定されたまま、病室のベッドに横たわったまま、試合を思い返してい
た美奈子の胸に去来したのは言い様の無い虚しさと情けなさであった。その時、病室
のドアをノックする音が聞こえた。美奈子がドアを空けるとそこに立っていたのは見
舞いにやってきた春菜であった。

美奈子は少し気まずそうな表情を浮かべたが、取り合えず春菜を病室に入れた。

「…良かった…元気そうね。」

笑みを浮かべてそういう春菜。そんな春菜に美奈子は自嘲気味に答える。

「春菜ちゃん…私、勝てなかった…あんな偉そうな事言っておきながら…つくづく情
けないよね私って。」

「ううん。その事はどうでもいいの。美奈子ちゃん、凄く頑張ってた。それに乙羽さ
んだって全裸なのにあれだけ戦えるなんて…腑抜けだなんてとんでもなかった。私こ
そ、感情的になって美奈子ちゃんの事ほったらかして乱闘起こしたりして…私がもう
少し支えてあげてれば美奈子ちゃんだって勝てたかもしれないのに…本当にゴメン
ね。」

そう言って謝る春菜の姿は美奈子にとって全く意外なものであった。自分が謝ろうと
していたのに謝られるとは。美奈子は可笑しくなって思わず笑った。

「何よ…私が謝ろうと思ったのに春菜ちゃんが謝るなんて。」

そして2人は顔を見合わせてまた笑った。暫くして春菜が美奈子に尋ねた。

「美奈子ちゃん、私、どうしても聞きたい事があるんだけど、いいかな?」



同じ頃、寛子もまた、入院中の乙羽の見舞いに訪れていた。左目の眼帯が痛々しかっ
たが、乙羽は笑顔で寛子を迎えた。

「…ありがとう。忙しいのに来てくれて。」

「ううん。乙羽さんが元気そうで安心しましたよ。試合が終わって呼びかけても全然
返事してくれない時は心配したんですからね。」

「ごめんね。心配掛けて。寛子ちゃんの為にも勝ちたかったんだけどな…」

「そんなことないです。後がない状況まで追い込まれていたのにあそこまで粘った事
だって十分凄い事ですよ。」

「私が頑張れたのだって、寛子ちゃんがいてくれたからだよ。もし私一人だったら、
私は美奈子ちゃんの良い様にやられて負けてたと思う。だから寛子ちゃんには凄く感
謝してるの。本当にありがとう。」

「そんな…私なんて何した訳でもないのに…」

思わず恐縮する寛子だったが、彼女にも春菜同様に一つの疑問があった。

「乙羽さん…私思っていた事があるんです。戸向さんに追い詰められてた時、乙羽さ
ん何かを感じてた様に思えたんです。一体何を考えてたんですか?」

その言葉に乙羽は少し驚いた表情を浮かべていたが、程無くして口を開いた。



「で、聞きたい事って何?」

不思議そうな面持ちで美奈子が春菜に尋ねる。

「美奈子ちゃん、どうしてあんな状態になってまで試合を続けたの?そこまでして乙
羽さんに対してリベンジしたかったの?」

その問いに美奈子は少し間を置いて答える。

「私が最初から地下プロレスに参戦してるってのは聞いた事あるでしょ?その頃私や
乙羽さんは言って見れば『噛ませ犬』だったの。到底勝ち目の無いようなカードを組
まされてね。それはもう無惨な位にボロボロにされたわ。正直、いつまでこんな状態
が続くんだろう、何で私たちばかりこんな目に遭うのって思った。」

美奈子の話に春菜は黙って耳を傾ける。

「その頃は丁度、私と乙羽さんはグラビアでもツートップって言われててお互いの事
凄く意識してたんだ。そんな時、K−1グランプリってイベントがあって、その中で
私と乙羽さんのカードが組まれたの。ここで勝てば『噛ませ犬』から抜け出せるって
思った。それに乙羽さんには絶対負けたくないって。恐らく、乙羽さんも同じ事を考
えてたんじゃないかな。そして乙羽さんが勝って、私は負けた。その後、乙羽さんは
K−1グランプリで優勝してジュニアヘビーのチャンピオンになって仕事も順調、片
や私はその後もずっと『噛ませ犬』のままで仕事も伸び悩んだまま。情けないよね、
ツートップって言われてたのに見事な位に差がついちゃった。」

自嘲気味に語る美奈子を春菜は複雑な表情で見つめる。

「全てはあの時に、私と乙羽さんが戦った時に決まったんだと思った。その戦いの
時、私は乙羽さんに押されっぱなしで、トップレスにされて、オッパイをボロボロに
されてKO負け。今から考えればツートップの試合としては何とも情けない試合だっ
た。悔しかったんだ、私。もし、あの時勝っていれば私の将来も今と違ってたって
ずっと思ってた。そしてそれがいつの間にか私に勝った乙羽さんへの憎しみに変わっ
てた。いつか私と同じ屈辱を味あわせてやるって。でも、それだけじゃなかった。あ
の時の試合で全てが決まったなら、もう一度乙羽さんと戦ってもし勝てれば、私の中
でも何かが変わるんじゃないかって何処かで思ってたんだ。だからこそこの前の試合
はどうしても勝ちたかった。春菜ちゃんがタオルを投げ込もうとした時にまだ勝負は
ついていない、今度こそ私は勝つんだって思った。だからこそあの時許さないなんて
叫んじゃったって訳。」

美奈子の悲惨な戦歴については春菜自身ある程度聞いた事があったとはいえ、乙羽と
の因縁、そして美奈子の秘めたる思いは全くもって初耳であった。そして美奈子の悲
壮とも言える思いも彼女の想像を超えるものであり、春菜は暫し言葉を失っていた。



同じ頃、乙羽もまた美奈子同様に、寛子の問いかけに対して口を開き始めていた。

「私…美奈子ちゃんに追い詰められた時、昔の自分の気持ちを思い出したんだ。そ
う、前に美奈子ちゃんと戦った時の気持ち。その頃私と美奈子ちゃんはグラビア界の
ツートップって呼ばれてた。でも地下プロレスでは二人揃って『噛ませ犬』として何
度も酷い目に遭わされてね。いつかは強くなってやるぞって思ってたわ。そして、そ
んな状況が続いてた頃、私と美奈子ちゃんが戦う時が来たの。私もいつか美奈子ちゃ
んと戦う時が来る事は覚悟してた。それは恐らく美奈子ちゃんも同じだったと思う。
ライバルとして、私は絶対に美奈子ちゃんに負けたくなかった。ここで勝って活躍の
場を増やすんだって。その結果、私は美奈子ちゃんと追い詰めるところまで追い詰め
た。そう、この前の試合で美奈子ちゃんが私にした事と同じ様な事よ。」

「乙羽さんが…あんな事を…!?そんな…。」

それは寛子の知る優しく、おっとりした性格の乙羽からは想像も出来ない事であっ
た。思わぬ過去に寛子はショックを隠しきれなかった。

「私としても、この先芸能界で活躍する為にも絶対にその試合で負ける訳には行かな
かった。美奈子ちゃんをトップレスにして、皆の前で晒し者にして、そしてその挙句
にもう試合が続けられる状態になかった美奈子ちゃんの事をサンドバックにしたの
よ。気付いた時には、オッパイが痣だらけになった美奈子ちゃんの事を締め上げてい
る私が居たわ。」

尚も続く乙羽の告白は寛子に更なるショックを与える。

「我に帰って思ったわ。美奈子ちゃん、お願いだからギブして。もう良いでしょっ
て。ずっと一緒に『噛ませ犬』だった美奈子ちゃんが粘るのが凄く辛かった。でも美
奈子ちゃんにだって意地があるわよね。結局、美奈子ちゃんは最後までギブアップし
ないまま失神して、試合は私の勝ちって事になった。それ以降、私も徐々に試合に勝
てる様になっていって『噛ませ犬』から抜け出す事が出来て、こうやって仕事も順調
にさせて貰える様になった。でも美奈子ちゃんはその後もずっと『噛ませ犬』として
酷い目に遭い続けたみたい。試合の後、美奈子ちゃんと会う機会も無かったけど、美
奈子ちゃん、ずっと私の事を恨んでたんだ。そしてリベンジしたかったんだと思う。
自分の事を叩きのめして、一人だけ『噛ませ犬』から抜け出した私の事を。」

春菜同様、初めて知らされる二人の因縁に寛子も言葉を失っていた。

「仕事が順調になって、いつしか私はいつまで地下プロレスに出続けないといけない
のって思う様になった。もう戦いたくないってすら思う様になった。その証拠にその
頃から昔以上に不甲斐ない負け方する様になった。この前の試合だって、正直に言え
ば話が来た時は絶対やりたくなかったんだ。でもこの世界で生きる以上断る訳にも行
かなくて、嫌々ながらに引き受けた。そんな私を待ってたのが美奈子ちゃんだった。
そして私は昔の自分がやった事と同じ目に遭わされた。でも一つだけ美奈子ちゃんと
違うところがあった。美奈子ちゃんはどんなにやられてても最後まで勝負を捨てずに
粘り続けたのに、私はそれすらしなかった。ただひたすらルールと美奈子ちゃんの憎
悪に脅えて逃げようとしてた。情けないよね。私って。」

返す言葉も無く、黙って話を聞くだけの寛子。必死で返す言葉を見つけようとするが
なかなかその言葉が見つからない。

「でも寛子ちゃんが私の為に飛び出していって傷ついた時、ようやく戦わなくちゃっ
て思ったわ。いつまでも逃げてる訳にいかないって。そのお陰でどうにか試合を五分
のところまで戻す事が出来た。でも美奈子ちゃんの私に対するリベンジの気持ちは凄
かった。あんな腕になってまで私を倒そうとするなんて、状況は有利なクセに私は正
直、そんな美奈子ちゃんが怖かった。でも美奈子ちゃんに追い詰められて勝負が決ま
りそうになった時になって負けたくない、私は絶対に美奈子ちゃんに負けたくないっ
ていう気持ちが心の奥から湧き上がってきたの。そして私は美奈子ちゃんに向かって
行ってた。その時、私は昔の自分に戻ってたんだ。昔、美奈子ちゃんと戦った時の自
分にね。でも情けないよね、最後の最後でようやく負けたくないって思う様になるな
んて。寛子ちゃんだけでなく、覚悟を決めてきた美奈子ちゃんに対しても申し訳ない
よね。」

しかし自分を責める様に語る乙羽に対し、寛子がここでようやく口を開き始めた。



「美奈子ちゃん…ごめんね。私…何も知らなかった…それなのに無責任なことばかり
言って…」

「いいよ。謝らなくたって。春菜ちゃんがあやまる必要はどこにもないんだから。」

絶句していたままだった春菜から出たのは申し訳無さそうな謝罪の言葉であった。そ
んな春菜を諭し、美奈子は更に言葉を続ける。

「改めてこの前の試合を振り返ると、何だか自分が情けなくてね。それは確かに私は
乙羽さんに昔の自分と同じ目に合わせた。その時はいい気味だって思った。でもあの
時の混乱して怯えていた乙羽さんを叩きのめして晒し者にしたところでそれは結果と
しては勝負でも何でも無い、単なる自己満足だったんじゃないかって。現に乙羽さん
が試合に集中し始めたら私は前と同じ様に押されっぱなし。結局のところは前と同じ
だったって事ね。そう考えるとますます情けなくなっちゃった。」

そう答える美奈子の目から一筋の涙が零れ落ちていった事に気付いた春菜は少し間を
置いて答えた。

「…違うよ、美奈子ちゃん。押されっぱなしなんかじゃなかった。確かに試合に集中
し始めた乙羽さんは別人みたく強かった。でも美奈子ちゃんはあんな腕になりながら
最後の最後でその乙羽さんを追い詰めたじゃない。あれは間違いなく対等な勝負の中
での事だった。勝つ事は出来なかったけど美奈子ちゃんはちゃんと互角の勝負をして
いたんだよ。その事には自信を持って良い、ううん、持つべきだよ。今度乙羽さんと
戦う時は、まともな勝負でだって十分勝ち目はあるって。」

その春菜の言葉は情けなさで一杯だった美奈子の心を優しく包んでいく。美奈子の目
からは先程とは違う意味の涙が零れ落ちた。

「…ありがとう、春菜ちゃん…。」

「…もう。いつまで泣いてるのよ。先輩なんだからしっかりしてよね!あ、でもあの
元生徒会長が飛び掛ってきた時に助けに入った事は感謝して欲しいかな?あの娘のパ
ンチや蹴りも結構効いたのよ。乱闘したコッチとしては大変だったんだから。」

春菜は少し笑いながら冗談交じりに美奈子を励ます。

「…うん。あの娘だって私から乙羽さんを守ろうとして飛び掛ってきたんだ。そして
春菜ちゃんは私を守ろうとしてあの娘と乱闘になっちゃった。悪いのは全部私なん
だ。あの娘に会ったら謝らないとね。」

「その前に助けた私にも謝って欲しいな!ワ・タ・シに!」

「分かってるよ。ゴメンね、ゴメン。」

「冗談だよ。別にその事はどうでも良いの。美奈子ちゃんを守るのがセコンドの私の
役目だったんだから。気にしない気にしない!事務所の皆も待ってるんだから早く退
院してきてよね。」

その言葉に美奈子と春菜の間からどちらからともなく、再び笑いが起きたのだった。



「…申し訳ないなんて言わないで下さい。私には…私には、乙羽さんの事を情けな
いって責める事なんか出来ません。むしろ、私の方こそ謝らなきゃいけないです。何
も知らないで開き直れだなんて無責任な事言ってしまって…でもそんな私の為に乙羽
さんは…あんなに大勢の人の前で裸になってまで戦ってくれたのに…私は、本当に何
も出来なくて…私こそ情けないです…。」

ようやく言葉を返す事が出来たものの、今にも泣き出しそうな寛子を乙羽がそっと抱
き寄せる。

「泣かないで…さっきも言ったじゃない…私は寛子ちゃんがいてくれたから頑張れた
んだよ。寛子ちゃんは私に勇気をくれたんだよ…泣かないで。」

そう言って寛子の涙を拭ってやる乙羽。そんな乙羽に寛子は震えた声で感謝した。

「ありがとう…乙羽さん…ありがとう…。」

そして寛子にはもう一つ、伝えたい事があった。

「さっき、戸向さんに対しても申し訳ないって言ってたじゃないですか。でも私、最
後に乙羽さんが殴りかかっていった時に戸向さんが小さく微笑みを浮かべてたのを見
たんです。あれはきっと、乙羽さんが向かってきた事が嬉しかったんじゃないかって
思うんです。色々あったけど、乙羽さんと戸向さんは最後に本当の純粋な勝負をして
たんです。だから乙羽さんが負い目を感じる必要なんかどこにもないんですよ。」

「…そう、美奈子ちゃんが…。」

寛子から告げられた事実に、乙羽は少しだけ救われた気がしていた。そして、その心
の中では今度美奈子と戦う時は彼女がどう向かってくるにしろ、彼女の思いを逃げる
事無く正面からしっかりと受け止めようという決意が固まっていた。

「寛子ちゃん、ありがとう…私、本当に寛子ちゃんに助けられた。本当にありがと
う。」

「そんな…あっ、私そろそろ行かなくちゃ。この後仕事の打ち合わせがあるんで
す。」

「そっか…そうだね。気持ちを切り替えて頑張ってね。そこまでだけど、送っていく
よ。」



病室を出て廊下を行く2人は、そこで美奈子と春菜に出くわした。美奈子も丁度、春
菜を見送るところだったのだ。突然の事に4人の間には一瞬気まずい空気が流れる
が、その空気を変えたのは寛子と春菜であった。

「この前はゴメンなさい!」

2人の口からでたのは全くもって同じ言葉であった。思わず顔を見合わせる寛子と春
菜。あまりにも綺麗に揃っていた言葉に思わず笑い出す美奈子と乙羽。それにつられ
て寛子と春菜も笑い始める。

「何よもう。二人揃って同じ事言うなんて。」

「しかも綺麗にハモってたし。」

そう言いながら、余程可笑しかったのか乙羽も美奈子も笑い続ける。

「もう、笑い過ぎ!そんな笑う程のことじゃないでしょ!」

恥ずかしくなったのか、少し顔を赤らめながら言う春菜に寛子も続く。

「そうですよ。しかもここ廊下なんですから静かに!」

流石は元生徒会長、寛子の真面目な一言であったが、しかしそれが更にツボにはまっ
たのか、美奈子と乙羽の笑い声は先にも増して大きくなっていく。

「寛子ちゃん、いきなり真面目な事言わないでよ。まだお腹痛いんだから〜」

笑い続ける二人にお手上げと言った感じで、寛子と春菜は顔を見合わせる。

「困った先輩ね。流石は美奈子ちゃんとツートップって言われてただけあるわ。」

「そうなの。一見頼りになりそうに見えるけど、意外に手間掛けてくれるのよね。」

そう言うと、寛子と春菜は顔を見合わせながら少し微笑んだ。そして笑いが落ち着い
てきたところで美奈子が改めて話を切り出す。

「乙羽さん、寛子ちゃん。少しだけ時間もらえない?少しだけで良いからさ。」



美奈子は乙羽と寛子を自分の病室に招き入れた。無論、春菜も同席している。そして
美奈子は乙羽と共にベッドに掛けると、静かに尋ねた。

「…体の方は…もう大丈夫なの?」

「…うん。全然大丈夫…といいたい所だけど、この目はもう少し掛かりそうだって
さ。あの一撃がかなり強烈だったみたい。実際、あの一撃が来た時は痛みよりも驚き
の方が凄かったけどね。美奈子ちゃんこそ、肩は大丈夫なの?」

「私の方も、もう少しかかりそうだって。ま、痛み分けってところかしらね。」

言いながら、小さく微笑む美奈子。そのやり取りに、美奈子が乙羽に対し何かを語ろ
うとしている事を悟った春菜は寛子を連れて病室を出ようとする。

(…えっ?ちょっと…)

(いいから。今は2人だけにしてあげな。美奈子ちゃんだって、乙羽さんに危害加える
様な事はしないわよ。)

「美奈子ちゃん、私、この娘と少し話したい事があるんだ。少し席外すわ。良いで
しょ?」

「あっ…うん、分かった。」

そういうと、春菜と寛子は病室を出た。そして2人っきりになった美奈子は乙羽に話
し始めた。

「…ゴメンね。散々酷い事しちゃったね。」

「ううん、気にしないで。私も昔、美奈子ちゃんに同じ様な事したんだから、おあい
こ。」

申し訳無さそうな美奈子に乙羽は微笑みながら返す。

「…でも、こうしてると何か、懐かしいね。昔はさ、2人揃ってボロボロにされて、
そんでもってここに担ぎ込まれて治療受けてたわよね。ホントのところは、そんな
昔って訳でも無いのにさ。」

「…そうだね。二人揃ってホント酷い目に遭ってたよね。KOされて、裸にされ
て。」

2人は笑いながら話を続ける。

「でも、いつからかな。私達は全然違う方向に進んじゃった。一方はK−1グランプ
リで優勝してジュニアヘビーのチャンピオンにまでなって、もう片方は相変わらず
「噛ませ犬」のまま。ツートップの辿った道はあまりにも対照的だった訳だ。」

美奈子のその言葉に、乙羽の顔から笑みが消える。

「美奈子ちゃん…。」

「私、自分が凄い情けなかった。本来、ツートップってのはお互いに競い合うもんで
しょ。でも乙羽さんはどんどん強くなっていくのに、私はと競い合うどころか、相変
わらず弱っちいままで、差はどんどん拡がるばかり。ツートップの明暗は見事に分か
れちゃった。」

その言葉に、乙羽はどう答えたら良いのか分からずにいた。

「気がついたら、私はいつの間にかあなたに対して嫉妬するようになってた。ずっと
一緒に『噛ませ犬』だったくせに、私をボコボコにして一人だけ強くなりやがってっ
て。そしてその嫉妬がいつしか憎しみになってた。いつか私を踏み台にしてのし上
がった恨みを晴らしてやる、私と同じ屈辱を味あわせてやるってね。でも、落ち着い
て考えてみれば、バカな話よね。私が弱いままだったのは乙羽さんのせいでも何でも
ない、私自身の責任なのに。この前の試合だって、乙羽さんが思う様に闘えないのを
良い事に散々酷い事して、そんでもって乙羽さんが試合に集中し始めたら、ボコボコ
にされて。恨み言ばかりは達者で、肝心の実力は全然なんて、ホント情けないよね、
私って。」

しかし、それまで黙っていた乙羽が美奈子の言葉を遮る様に話し始めた。

「…私、強くなんか無い。美奈子ちゃんが言う程、私は強くなんか無いのよ。確かに
私は美奈子ちゃんに勝った後、段々に勝てる様にはなった。でも、その内に私は逃げ
る様になってたのよ。」

「逃げる様になったって…どういう事?」

「試合に勝てる様になって、仕事も順調に行く様になった頃、いつまで戦わなきゃい
けないのって考える様になった。そして、考える内に段々戦う事が怖くなり始めた
の。そしたら、昔にも増して無様な負け方をする様になった。『噛ませ犬』だった頃
は、それなりの覚悟を決めて試合に臨んでたのに、その覚悟すら無くしてた。美奈子
ちゃんが恨みを晴らそうとした私はもうどこにもいない。いたのは腑抜けになった、
臆病者の私だったのよ。ごめんね、こんな私で。ライバルとして、私も強くなくちゃ
いけなかったのにね。」

「乙羽さん…」

意外とも言うべき、乙羽の告白に美奈子は言葉を失った。

「この前の試合でも私は相変わらず逃げてたんだ。美奈子ちゃんに恨みをぶつけられ
て、ボコボコにされるのが怖かった。でも、私の為に寛子ちゃんが飛び出して傷つい
た時、戦わなくちゃと思った。少しだけど、勇気が出た。そして美奈子ちゃんに追い
詰められた時に思い出すことが出来たの。負けたくない、負けないって気持ち。そ
う、昔美奈子ちゃんと戦った時の気持ちよ。美奈子ちゃんが私に大切な事を思い出さ
せてくれたのよ。」

それを聞いた美奈子は少し恥ずかしくなったのか、はにかみながら返した。

「そっか…そうだったんだ。私もあの時、乙羽さんが向かってきた時、何だか嬉し
かった。ああ、昔私を倒した時の乙羽さんだって。私がリベンジしたかった乙羽さん
だってね。」

その言葉に、寛子の推測が正しかった事を悟る乙羽もまた、喜びの感情を抱いてい
た。

「春菜ちゃんが言ってたわ。私達は最後に、勝負をしてたんだって。本当の、純粋な
勝負をしてたって。その通りだったんだよ。ほんの少しの時間だったけどね。」

そう言いつつ美奈子は、心の中で自分が乙羽にした行為を恥じていた。

「出来れば、その勝負で乙羽さんにリベンジしたかった。それに今思えば、最初から
そういう勝負出来てれば良かったのにな。」

「遠回りしちゃったけど、今回の事で私もまた戦う気持ちを持てたし、美奈子ちゃん
もそういう気持ちを持てたんだから、この前の試合も決して無駄ではなかったんだ
よ。それにさっきも言ったけど、今回の事で私も美奈子ちゃんと同じ目に遭ったんだ
から、これでおあいこ。」

茶目っ気を含んだ様に笑う乙羽だが、ここで美奈子はある事に気付いた。

「…って、おあいこじゃない!昔戦った時は乙羽さんの勝ちで、この前の試合は結果
的に引き分け、まだ私に勝ち星がないもん!」

まるでノリツッコミの様に乙羽に返す美奈子。

「あ…そっか…今のところ私の1勝0敗1分けだね。ゴメン。」

そういって笑う二人だったが、少し間を置いて美奈子が言った。

「乙羽さん…怪我が治ったら、改めて勝負しない?私、執念深いんだからね。勝ち逃
げなんて許さないわよ。」

「…いいよ。受けてあげる。でも、私だって絶対に負けないわよ。ライバルとして、
全力で美奈子ちゃんを倒しに掛かるから、覚悟してよね。」

「私だって、今度こそ乙羽さんに勝ってみせる。まっとうな勝負だって出来るってト
コを見せてあげるわよ。」

改めての勝負の約束を交わした2人は一瞬睨み合うが、程無くしてお互いに微笑ん
だ。そこへ春菜と寛子が戻ってきた。

「話の方は終わった?この娘が2人の事凄い気にしてるから少し見に来たんだけ
ど。」

「もう、この娘じゃなくて寛子って名前があるんですから、ちゃんと名前で呼んで下
さい!」

「はいはい、分かった分かった。ゴメンね、寛子ちゃん。」

その2人のやり取りに、美奈子も乙羽も笑みを浮かべる。

「…うん。大丈夫。寛子ちゃんにも謝らなきゃね。春菜ちゃんと乱闘になったのだっ
て、元々は私の責任なんだから。」

「いえ…もうその事は良いんです。春菜さんや乙羽さんから戸向さんの事も聞きまし
た。そしたら何だか責める気になれなくなっちゃって…確かにあの時戸向さんが乙羽
さんにした事には腹が立ったけど、私だって戸向さんの立場だったら同じ事してたか
も知れないから…。」

「大丈夫よ。寛子ちゃんは優しいし、強いからあんな事したりしないって。」

そう言って寛子を諭す美奈子に、乙羽も続く。

「美奈子ちゃんだけのせいじゃないよ。私がちゃんと最初から戦っていれば、寛子
ちゃん達が乱闘する事も無かったかもしれないんだもの。私にだって責任があるよ
ね。改めてゴメンね。」

美奈子に謝られ、乙羽に謝られ、いい加減謝られ疲れたのか、春菜が面倒臭そうに
言った。

「もう!さっきから皆謝りっぱなしなんだから。もういいわよ。私はもう何も気にし
てないから、綺麗さっぱり忘れましょ。はい終わり!」

そう言って場を収めようとする春菜だが、寛子が申し訳無さそうに口を挟んだ。

「あ…私もさっき春菜さんに謝り損ねたから、ちゃんと謝りたかったんだけどな…春
菜さんにも酷い事した訳だし…。」

「だから!もう良いって言ってるのに!それに・・・春菜さんじゃなくて春菜ちゃん
でいいわよ。そっちの方がしっくりくるしね。あんたにも興奮してブッ殺すとか言っ
たりして…コッチこそ悪かったわよ。ゴメン。」

春菜の謝罪に、寛子は笑いながら答える。

「春菜ちゃん…もういいって言ってたのに、自分が謝ってるよ。」

その寛子の指摘に恥ずかしくなったのか、春菜は顔を赤らめて言った。

「あーもう!!揚げ足取らなくて良い〜!!」

恥ずかしそうに寛子に言い返す春菜。その光景に美奈子も乙羽も大笑いする。小さな
病室に2人の笑い声が響き渡った。そして落ち着いたところを見計らって乙羽が話を
切り出す。

「寛子ちゃん、春菜ちゃん…私達、もう一度勝負をやり直す事にしたの。結果的にお
互いこの前の試合は不完全燃焼で終わっちゃった様なものだしね。だから、もう一度
戦う事にした。それで、お願いがあるのよ。」

呆気に取られる寛子と春菜をよそに、美奈子が更に続ける。

「2人に、その試合を見届けて欲しいんだ。この前の試合では先輩らしくないところ
ばかり見せちゃったしね。今度は、先輩として恥じないような戦いを見せるから
さ。」

突然の話に寛子と春菜も驚いたと思いきや、帰ってきたのは意外な言葉であった。

「そっか…乙羽さんと美奈子ちゃんもまた戦う事になったんだ…」

「えっ?私たちもって、どういう事?まさか…寛子ちゃんと春菜ちゃんも?」

「…うん。と言っても私が言い出しただけで、寛子ちゃんはOKしてないんだけど
ね。」

「でも、どうしてまた…?」

「実は、さっき病室から出てた時にね…」



「春菜さん、この前はゴメンなさい。私、カッとなって我を忘れてて…」

「その事なら良いの。それより、私アンタにお願いがあるんだけど。」

「お願いって…何です?」

春菜が寛子を連れ出して2人きりになった訳はここにあった。そして話を切り出す春
菜。

「…もし良ければ、試合してくれない?私と。」

「えっ…春菜さん、やっぱりこの前の事…。」

「ううん。その…恨みとかじゃないんだけど…私、アンタに借りを作っちゃった気が
してさ。」

春菜の言う興味と言うのは寛子の持つ強さであった。先日の乱闘で寛子とやり合った
時、端から見れば、2人は実力的に拮抗していた様に見えたが、当の春菜は寛子のパ
ワーに押されていた部分があった。元から負けず嫌いの春菜は心の何処かでこの子に
は負けたくないという思いを感じていた。

「私が春菜さんに…貸しを!?」

「うん。この前アンタと乱闘になった時、私は負けないって思って必死で張り合っ
た。それであんなキツイ言葉も出ちゃってね。でも私はあの時アンタから何か力を感
じた。アンタは乙羽さんと同じ様に実力を秘めてる。その力に私は押されてたんだ。
でも、私だって押されっぱなしでは終わりたくない…なんてね。まあ、無理にとは言
わないわ。あとで返事を聞かせてよ。」

「春菜さん…」

突然の挑戦状とも言うべき春菜の言葉に、寛子は戸惑いを隠せなかった。春菜も寛子
を戸惑わせてしまった事を気遣った。

「ごめん…変な事言い出してさ。まあ後で返事聞かせくれれば良いからさ。そろそろ
戻ろっか?2人の事も心配でしょ?」



「…って訳。話した通り、私が勝手に言い出したことだから。」

「ふーん。でも春菜ちゃんが圧倒されたなんてね。コッチから見てる分には2人とも
一歩も引かないって感じだったけどな。」

話を聞いていた美奈子も意外そうに答える。

「でも、寛子ちゃんが実力を秘めてるってのは確かだと思うな。何せ、美穂子ちゃん
や千里ちゃん達にも勝ってる位だからね。」

地下プロのキャリアも長い先輩の乙羽も寛子の実力は認めているようであった。

「まあ何にせよ、美奈子ちゃんと乙羽さんが試合するなら、私はセコンドに着くのは
OKよ。寛子ちゃんもそれはOKよね?」

しかし、その春菜の問いかけに何か考えてるのか黙ったままの寛子。

「どうしたの?何か問題でもある?」

そして、寛子は徐に口を開き始めた。

「…うん。それは大丈夫。あとさ…私、春菜ちゃんの挑戦、受けてたつわ。」

その言葉に春菜も、乙羽も、美奈子も少し驚いた表情を浮かべたが、程無くして笑み
に変わった。

「へえ…寛子ちゃんも売られたケンカは買うんだ。何か意外ね。」

茶化す様に美奈子が言うと、春菜が答えていく。

「さっき春菜ちゃんが言ってたでしょ?私から何か力を感じたって。私にはそれが何
なのか分からないけど…私もそれを知りたいなぁって。それにその力を感じた春菜
ちゃんなら、もしかしたらその力を引き出してくれるかもしれないし。」

「力は自分で引き出すもんでしょうが。でもまあ、寛子ちゃんがその力を引き出して
くれたらそれはそれでまた面白い試合になるだろうしね。この前は少し引いちゃった
けど、やるからには今度は一歩も引くつもりは無いから、覚悟してよね!」

「私だって…負けません!」

そういうとさっきの乙羽と美奈子と同様に、寛子と春菜は小さく微笑んだ。

「寛子ちゃん…ありがと。」

そう春菜が小さく言ったが、寛子には分からない様子であった。

「えっ…何?」

「ううん…何でも無い。それでさ、美奈子ちゃんと乙羽さんも私達の試合を見届けて
欲しいんだけど…良いかな?」

「…お願いします。」

春菜の言葉に続けて頭を下げる寛子に、乙羽が声を掛ける。

「もう…頭なんか下げないでよ。見るなって言われても見届けてあげるから。」

「そう。先輩として、後輩がどんな試合するのか、しっかり見ててあげるからさ。」

美奈子も笑みを浮かべながら答えた。

「そうと決まれば、早く体の方治してよね。ちゃんと治してくれないと、コッチも困
るんですからね。」

「分かってるわよ。心配しなくても、頑丈な体なんだから私達。ね?」

「そう。2人が思ってるより、ずっとタフなんだから。」

言葉とは裏腹に、まだダメージの残る2人ではあったが、心配を掛けまいと強がりを
見せた。

「春菜ちゃん、そろそろ失礼しない?いくらタフでも乙羽さんも戸向さんも今はまだ
病人なんだから。そろそろ休ませてあげないと。」

寛子はさりげなく二人への気遣いとも取れる言葉をかけた。

「流石は元生徒会長。気配りが違うわよねぇ。」

「はいはい。どうせ私は気の利かない可愛くない後輩ですよ〜。」

「もう。すぐ拗ねるんだから〜。」

そのやり取りに再び誰からともなく笑いが起き、小さな病室が笑い声で満たされて
いった。それはこの前リングの上で全裸で殴り合いをした事からは想像もつかぬ様な
ものであった。





そして、それから数ヵ月後。開催された地下プロレスのリングの上に立つ2人のグラ
ビアアイドルがいた。無論、それは寛子と春菜。そしてそれぞれのセコンドに乙羽と
美奈子がついていた。交わされた2つの再戦の約束は、今果たされようとしていた。

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