2010 夏
第一話 限りなく透明な
都内の某スポーツジムの裏口から、トレーニングを終えたばかりの一人の女が歩き出た。
サングラスとマスクをしているその顔からは表情を読み取ることは出来ない。
女はキョロキョロと辺りを見回すと足早に歩き始める。
と、少し後ろに止まっていた一台の車が女の後を追うようにすっと動きだした。
車の窓はスモークで外からは誰が乗っているのかは分からない。
車はスピードを増し、前を歩く女に迫っていく。
「あっ!」
歩いていた女は気配を察知し、すんでのところで横によけた。
車は女を追い越すとゆっくりと止まる。
同時に車の後部座席の窓が下に降り、車に乗っていた女の笑い声が聞こえた。
「きちんとトレーニングしてるみたいね?」
その声を聞いて、車を避けた女のサングラスの奥に怒りの炎が点火した。
「こんなとこまで敵情視察?
あいかわらず暇そうね。
それとも…敵わないからダメージでも与えておこうと?」
その言葉を聞き、車の中の女は嬉しそうに笑った。
「あまりに弱かったらどうしようかと思って見に来たんだけど。
まあ、その様子じゃ自信ありそうね。
安心したわ…じゃあ、またね…」
車の中の女がそう言って手を上げると窓が上がっていき、車はまた動き出した。
車は街の暗闇の中へ音を上げて消えていく。
残された女は走り去っていく車の後姿をじっと睨んでいた。
「あいつには絶対に…」
猛暑が予想された2010年春、アルコール飲料のより高い売り上げを目指し、共同でイベントを開催しようと四代飲料水メーカーが会合を開いたことが事の発端だった。
折しも世間は、某兄弟や世界タイトルマッチ等ボクシングの話題で盛り上がっていた。
それに便乗し、各会社CMで出演中、もしくは出演予定の女優にボクサーのコスプレでもさせて適当にじゃれあわせ…それを、特別に招待された客がビールを飲みつつ観戦する…当初はそんな他愛のない企画のはずだった…。
四大飲料水メーカーで最初に参加者を決めたのは「薩掘」。
ビールキャンペーンガールの仲村華緒璃がすんなりと決まる。
それを見て次に決めたのは「浅火」。
新ジャンル「第三のビール」のCMに出演予定だった香籐愛が選ばれる。
香籐愛は仲村華緒璃とドラマで共演したこともあり、旧知の仲。
お互いに遠慮し、万が一にも本気で殴りあうことはないだろうという配慮も働いた。
…しかし、このあと、事態はおかしな方向へと話が進むことになる。
当初、「貴倫」は樫井優、「酸取」は阿様観夕と、前二社にあわせ、ビールのCM出演者を参加予定と発表していた。
しかし、自社の某チューハイが発売10周年であることを理由に、「貴倫」がそのチューハイのCMに出演中の深多響子へと、参加者を変更すると発表。
ややあって、「酸取」も自社のチューハイCMに出演中の伊子原聡美へと変更する。
企画の内容自体も、急遽、「ボクシングのコスプレ」というものから、「試合で勝敗を決める」というものへ大幅に変更された。
また四社が合同で莫大な賞金も出しトーナメントで優勝したものの総取りとすると。
なぜ、このような変更がなされたのか、数々の噂が立ったが、結局真相は分からずじまいであった。
「何でだろう?」
そう呟くと、試合に参加予定のその女性は自分のベッドの上にポーンと座った。
自分がボクシングで試合をする?…ピーンとこないなあ。
明日、記者会見があるらしい。
まさか女優同士、本気で殴りあったりするなんて考えられない。
きっと台本が用意されてるんだろう。
…まあ、演技でもあの女と闘えるのは嬉しい。
そこまで考えると、両手をふっと顔の前にあげ、パンチを宙に向かって放つ。
「ボクシングかあ…」
敗者を見下ろし、勝ち名乗りを受けている自分
…まさかね
女はふっと笑うと、頭を横に振り、ベッドの上に大の字になった。
パシャッパシャッ
一列に並べられた長机を前に無数のフラッシュがたかれる。
その光を眩しそうに見つめながら、司会の広未亮子に促され、まず仲村がマイクに向かった。
「ええっと、素晴らしい先輩方と同じ舞台、というかリングですけど、そこに自分が立てるなんて光栄です。
え?ライバルですか?いえいえ、私が一番格下ですから、ライバルだなんて。
あえていうなら、香藤さんとはドラマで共演して良くして頂いたんで、あんまりあたりたくはないなあ、とは思いますが。」
そこで仲村の話を受け、今度は香藤が微笑みながら話始める。
「今、話が出ましたが、仲村さんとは仲良いんで、私も嫌だなあと。
でも誰とあたってもやりにくいと思います。
女優同士、顔が命ですしね。
ボクシングは初めて?
はい、でも、昔、ドラマで俳優さんが演じられているのを見ることはありましたが…」
「ふふ…」
突然の笑い声に、香藤は話を途中でやめた。
自分の横に座る、その声の主をちらっと見やる。
「何がおかしいの?響子ちゃん?」
「……ううん…話を聞いてたら、仲村さんも愛ちゃんも仲いいんだなあって。
もし、戦うことになっても、本気でやれないよね。
でも、まあ、お金で勝敗をやりとりすればいいか」
愛がパッと椅子を蹴って立ち上がり、掴み掛からんばかりに響子に迫った。
「バカにしてるの?」
響子もゆっくりと立ち上がると愛の顔を睨み付ける。
会場中の温度が氷点下へと急速に下がっていく
ドスン
会場中に鈍い音が響き渡った
トーナメント参加予定者
「薩掘」 仲村華緒璃
「浅火」 香籐愛
「貴倫」 深多響子
「酸取」 伊子原聡美