『おっそいな〜・・・一体何してんのやろ?』


仲澤裕子はカフェの奥まった席で雑誌をパラパラとめくりながら、待ち合わせ相手の到着を待っていた。


「ゴ〜メ〜ン、裕ちゃ〜ん!!」


その声を聞いて裕子が顔をあげると、顔の前で両手を合わせながら、小走りに裕子の席に近づいてくる飯田香織の姿があった。


「遅〜い!アンタが誘たんやで!」


裕子の言葉に香織は大きな背中を丸め、何度もペコペコと頭を下げる。
そんな香織の滑稽な姿を見て、裕子は思わず苦笑する。


「もうええから早よ座り!」


裕子の言葉を聞いて、香織は申し訳なさそうに微笑んだ。



仲澤裕子と飯田香織。
国民的アイドルグループ、「アフタヌーン娘。」の初代と2代目のリーダーである。
二人とも既にグループを卒業していて、お互いソロで活動しているのだが、今でもプライベートで交流が続いている。
この日も、「ある事」がきっかけで、香織が裕子を「気晴らしにでもなれば」と誘ったのだ。



「そういや紺野とまこっちゃん、卒業するんやなあ・・・」


ウェイトレスが香織の前にコーヒーを置いて立ち去った直後に裕子がつぶやいた。


「紺野とまこっちゃん」とは、「アフタヌーン娘。」のメンバーの紺野麻美と緒川麻琴の事である。

紺野は「大学進学」、緒川は「語学留学」を理由に、「アフタヌーン娘。」を卒業する事が決まっていた。

裕子がその話題を口にした事で香織は一瞬表情を曇らせたものの、平静を装って裕子の話に乗っていく。


「でも裕ちゃん。あのコ達でも、“娘。”に入ってもう5年になるんだよ!早いよねえ!」

「ちょっとアンタ、それ完全にオバハンの言い方やで!」

「裕ちゃんに言われたくないよ〜!」

「うるさいわ!」


裕子がそういった瞬間、二人はどちらからともなく声を上げて笑いだす。
しかしその時間は長くは続かず、真顔に戻った裕子は再び話をしはじめる。


「まあ考えてみたら、あの加護が、煙草吸いよるんやもんなあ・・・」



数ヵ月前、裕子や香織と同じ「アフタヌーン娘。」の元メンバーの加護愛が未成年でありながら喫煙している現場を写真誌に
スクープされ、謹慎処分を受けていた。

裕子が“娘。”に在籍していた頃、加護はまだ中学生だった。
リーダーである裕子の言うことをちっとも聞かず、同期の辻望とつるんでは至る所で「悪戯」を繰り返していた加護に、
裕子はほとほと手を焼かされていた。
裕子にしてみれば加護は、その頃の「悪戯っ子」のイメージが強く、喫煙の事を聞かされた時も違う意味で驚きを隠せなかった。



目の前で視線を宙に泳がせながら加護の話をする裕子を、香織は黙って見つめていた。
裕子はそんな香織の方に視線を向けようとはせず、そのまま話を続けていく。


「とぅんくさんも結婚したし・・・」


裕子が“とぅんく”の名前を口にした瞬間、香織は「顔に出してはいけない」と思いつつも、自分の表情がこわばるのを自覚していた。
しかし裕子は、そんな香織の心を見透かしているかのように、視線を宙に泳がせたまま話を続ける。


「時間は流れてんのや・・・とぅんくさんも、あのコ等も、大人なんや・・・相変わらず子供なんは・・・ワタシだけや・・・」







 “とぅんく結婚!!”



突然入ってきたそのニュースに、オハヨープロジェクトのメンバー達は驚きを隠せなかった。

プロデューサーとぅんくは「アフタヌーン娘。」をはじめとした「オハプロ」メンバー達の育ての親であり、メンバー達にとって
“絶対的”な存在である。
「オハプロ」のメンバーの中で、とぅんくの“結婚”に関して事前に話を聞かされていた者は誰一人おらず、裕子も例外ではなかった。



「結婚・・・か・・・」


楽屋で出番待ちをしていた裕子はポツリとそうつぶやいた。

この日裕子は、他の「オハプロ」メンバー同様“とぅんくの結婚”についてマスコミの取材を受け、お祝いコメントを送っていた。

メンバー達はコメントの中で、とぅんくの事を「オハプロの父」と表現して祝福していたが、それは大げさではなく、
殆どのメンバーの共通の思いである。

裕子も表向きにはとぅんくの事を「お父さんみたいな存在」と評していたが、実際のところは少し違っていた。

他のメンバーに比べると、裕子はとぅんくと“ほぼ同世代”といっていいくらい年齢も近く、その付き合いも長い。
「アフタヌーン娘。」結成後、裕子をリーダーに任命したとぅんくは、常に裕子の事を気に掛け、時には厳しい言葉で裕子を叱咤し、
時には優しい言葉で裕子のリーダーとしての労をねぎらった。

“娘。”から卒業してソロデビューする事がきまった時も、とぅんくは裕子のキャラを考えて楽曲を作ったり、
出演する番組を選んでくれたりしていた。
そして仕事の面だけではなく、裕子はプライベートな事に関してもよくとぅんくに相談していた。

そんなとぅんくは裕子にとって、父というよりむしろ「兄」であったり、「信頼できる上司」であったり、
時には「特別な男性」であったりもした。

当然マスコミからもそんな噂が取り上げられる事があったが、その時裕子は

「もしそうやったとしたら、とっくにそう(結婚という事に)なってますよ。(笑)」

とサラリとかわしていたが、そんな気持ちが全くなかったかといえば、けっして「そうだ」と言い切る事はできなかった。


「アホやなあ・・・何考えてんのやろ、ワタシ・・・とぅんくさんが結婚するんやで・・・ちゃんと“おめでとう”って言うたらな
アカンやん・・・」


誰もいない楽屋で裕子は、自分に言い聞かせるようにそうつぶやいた。






「そうかあ・・・あのコ等が卒業かあ・・・」


「アフタヌーン娘。」の現メンバーである紺野麻美と緒川麻琴が卒業する事を聞き、裕子は彼女達が“娘。”に入ってきた時の事を思い出していた。

二人とも真面目で練習熱心ではあったものの、先輩達に対して遠慮がちでなかなか打ち解ける事が出来ず、同期で加入した高橋藍、新垣理沙と4人で一緒にいる事が多かった。

見兼ねた裕子はその4人を呼び出して、

「デビューしたばっかでわからん事が多いんは当然なんやで、もっと先輩に話を聞きにいかなアカンで!」

と注意したものの、なかなかその態度か変わる事はなく、この先キチンとやっていけるのかと心配したものだ。

しかしそんな彼女達も19歳になり、自分達の意志で新しい世界への一歩を踏み出そうとしている。

裕子はそんな二人の事を頼もしく思うのだった。



『という事は、あの二人の“卒業マッチ”があるんやなあ・・・』


“卒業マッチ”というのは「オハプロ」発足以来伝統的に行なわれている儀式で、「オハプロ」のタレントが、所属しているグループから卒業する時、あるいは引退や移籍で「オハプロ」から出ていく時に、裏舞台で開催されている「地下プロレス」に出場して試合を行なうというものだ。

「地下プロレス」とは、芸能界のスポンサーとなっている各界のVIP達が個人的に多額の出資をして行なっている「セレブの道楽」で、テレビや映画でお馴染みのアイドルや女優達に「プロレス」をやらせて楽しむというものである。

「オハプロ」のタレント達も例外ではなく、“卒業マッチ”に限らずどのタレントも必ず一度は「地下プロレス」に出場する機会を設けられる。
ただ、“卒業マッチ”の場合は大抵、他の時よりも「厳しいカード」を組まれる場合が多い。
それはグループからソロ活動に転向する事の厳しさを、あるいは芸能界を離れ、一般社会に足を踏み入れる事の厳しさを、身を以て味合わせる為の、事務所なりの「辛口のエール」であった。

当然裕子もデビューしてからそれなりの月日が過ぎているので、「地下プロレス」には何度も出場しているし、“娘。”を卒業した時には“卒業マッチ”も経験している。
ここ数年は「地下プロレス」から遠ざかっている裕子だが、実は裕子は「地下プロレス」で一度も負けた事が無く、オハプロでは「無敗の裕ちゃん」と呼ばれ、その強さは未だ語り種となっている。

「相手に恵まれただけ」と裕子本人は謙遜するものの、オハプロで何試合もやっていて無敗なのは裕子ただ一人なので、後輩達が羨望の眼差しを向けるのは無理のないところだろう。


「でもホンマ、ワタシもようあんな事やってたよなあ・・・」

裕子は「地下プロレス」に出場していた頃の事を思い出していた。

しかし頭に浮かんでくるのは対戦した相手ではなく、セコンドについて応援してくれたオハプロの仲間や、勝利報告した時のとぅんくの笑顔だった。


“おう仲澤、よう頑張ったなあ!”

“よし、今度の試合勝ったら、何でも好きなもん買うたるわ!”


今思えば、あの“とぅんくの笑顔”のおかげで、自分は頑張れたのでは、と裕子は思った。



麻美と麻琴が卒業する話を聞いてから数日後、裕子は高橋藍から二人の卒業マッチの日が決まった事を聞かされた。


“仲澤さんもよかったら観にきて下さい。”


藍にそう言われた裕子は、「行けたら行く」と返事したものの、観に行くつもりはなかった。

自分が観にいったりしたら、二人に余計なプレッシャーをかけてしまう事は目に見えている。
以前、裕子を姉のように慕っている矢口真理の卒業マッチを観に行った時、矢口は殆ど虫の息の状態だったにもかかわらず、決してギブアップしようとしなかった。
結局矢口はレフェリーストップで敗れてしまい、試合後裕子が矢口をねぎらおうと控え室に足を運ぶと、矢口は歩くことも出来ない状態だったにもかかわらず、泣きながら裕子に何度も頭を下げたのである。


“裕ちゃんゴメンなさい・・・”


あの時の涙でぐしゃぐしゃになった矢口の顔が、未だ裕子の脳裏に焼き付いている。


“ワタシは観にかれへんけど、頑張りや・・・”


裕子は心の中で、卒業マッチを控える二人にエールを送っていた。





紺野麻美と緒川麻琴の卒業マッチ当日。

都内某所の「地下プロレス」会場にはたくさんの観客が詰め掛け、リング上ではいよいよ彼女達の卒業マッチとなるタッグマッチが行なわれようとしていた。
対戦相手は「アフタヌーン娘。」とライバル関係にある、大須賀プロモーションのアイドルユニット、「純情クラブ31」のメンバー、荒城紅と市川絵美である。
リング周辺には「アフタヌーン娘。」と「純情クラブ31」の他のメンバーがそれぞれのセコンドとして陣取っていて、リング上でレフェリーの説明を聞いている4人を見守っている。
両軍が各コーナーに分かれ、緒川麻琴と市川絵美がリング内に残ったところで、試合開始のゴングが鳴らされた。


しばらく睨み合った後、麻琴が低い態勢からのタックルで長身の絵美の懐に潜り込み、テイクダウンを奪うが、絵美がグラウンドの展開を嫌い、ロープに逃げられてしまう。
その後も麻琴はタックルを狙っていくが、絵美がその長い手足でパンチとキックを繰り出し、麻琴を牽制する。
テクニックの麻琴、パワーの絵美という図式で両者とも譲らず、大きな動きのないまま二人はパートナーにスイッチ。麻美と紅という顔合わせになる。

空手茶帯の麻美に対し、沖縄出身で琉球空手の心得がある紅。
今度は自然にスタンドでの戦いとなり、お互いに蹴りで相手を牽制しながら、チャンスを伺う展開となる。先に紅のローキックが麻美の脚をを捕らえ、麻美がひるんだところを紅が一気に間合いをつめていく。
しかし麻美も下がってはまずいとパンチを出してこれに応戦。
ここから二人の激しい打撃戦が始まり、会場の空気が一気にヒートアップする。一進一退の攻防でお互い疲れが見える中、紅が小休止したのを見計らって、麻美が紅を自軍コーナーに無理矢理押し込んで麻琴にスイッチ。

紅の攻撃でダメージを受けた麻美が、体力回復の為に麻琴にタッチしたのだが、この選択が大きく裏目に出てしまう。


打撃は苦手な麻琴は、紅の腰にしがみついて強引にマットに押し倒していく。
しかし対照的にグラウンドを嫌う紅が倒されながらも麻琴の頭部にパンチとエルボーを連発し、脱出に成功するとコーナーに戻って絵美にタッチ。
麻琴は紅が既にタッチを交わした事に気付かず、コーナーに下がろうとする紅に掴み掛かっていく。

「折角麻美がチャンスを作ってくれたから」と紅を深追いする麻琴。しかし試合の権利者絵美が麻琴に強烈なニーリフトを浴びせて動きを止めると、紅もリング内に残って二人がかりで麻琴に襲い掛かかっていく。

麻琴を助けようと麻美もリングに入っていくが、レフェリーに制され、助けに行くことができない。
そこで素直に下がればよかったのだが、根が真面目な麻美は「二人がかりじゃないですか!」とレフェリーに抗議し、押し問答を始めてしまった為に逆に麻琴を孤立させる羽目になってしまう。

相手コーナーでは絵美に羽交い締めにされた麻琴がサンドバッグ状態で紅のパンチとキックを受け続けていている。
麻美はようやくレフェリーを掻い潜って相手コーナーに向かうが、これに気付いた絵美が紅に声をかけ、走ってきた麻美の喉元に紅がカウンターのトラースキックを浴びせていく。
これで麻美は大きなダメージを受け、喉を押さえて転がるようにリング下に落ちてしまう。

リング内では紅に何やら指示された絵美がダウンしている麻琴を無理矢理引きずり起こし、ボディスラムの態勢で抱えあげていく。
しかし絵美はマットに叩きつけようとはせずに、麻琴を抱えたままゆっくりとロープに近づいていく。


「ううっ・・・」


リング下に落ちた麻美は、ようやく立ち上がろうとしているところだった。

“麻琴ちゃんを助けなきゃ・・・”

決してダメージが軽いわけではないが、麻琴がピンチなだけにそんな事はいってられない。
何とか立ち上がった麻美がリング上を見上げると、なんと市川絵美が麻琴をリング下に投げ飛ばそうとしていた。


“危ない!!”


絵美が麻琴をリング下に放り投げた瞬間麻美がダッシュし、先回りして落ちてきた麻琴を受けとめようとするが、そんな事ができる訳もなく、麻琴の下敷きになって倒れてしまう。


「・・・!!」


場外に落とされた麻琴は、一瞬状況が把握出来なかったが、自分の下で倒れている麻美を見て愕然とする。

「麻美ちゃん!!!」


倒れている麻美は額から大量の汗を流していた。どうやら麻琴を受けとめた衝撃で腕を骨折したようである。


“ワタシのせいだ・・・”

自分をかばって負傷した麻美の姿にショックを受ける麻琴。
しかしそんな麻琴に構う事無く、リング下に降りてきた紅と絵美が麻琴をリング内に押し戻していく。

リング下では麻美の為の担架が用意され、セコンドについていた「オハプロ」のメンバーが、心配そうに麻美を見守っている。


「麻琴ちゃんが・・・麻琴ちゃんが・・・」


担架に乗せられながらもうわ言で麻琴の事を気遣う麻美に、セコンドのオハプロメンバー達は涙をこらえる事ができなかった。





「・・・やっぱりきてしもた・・・」


仕事を終えた裕子は地下プロレスの会場に来ていた。麻美と麻琴の“卒業マッチ”がどうしても気になってしまい、思わず会場に足を運んだのである。


「あのコんらにわからんように客席の方から見とこ・・・」


裕子はそう気軽に考えていたが、扉の向こうから聞こえてくる観客のざわめきにただならぬ予感を感じずにはいられなかった。


“何や・・・何かあったんか・・・”


裕子が扉を開けると、中では総立ちになった観衆の声援と怒号がリングに向かって飛び交い、会場全体が騒然とした雰囲気になっている。
そして裕子は一部の観客が通路の方に向かって走っていくのに気付き、通路の方に視線を向けると、担架で運ばれている女の子の姿が。

“紺野?・・・”


裕子がいる場所は通路から離れていた為、遠目ではっきりと確認出来ないが、担架に乗っている女の子は麻美のように見える。
そして多くの罵声に交じって聞こえる、一部の観客からの「麻琴コール」に気付いた裕子がリングに目を向けると、そこには紅と絵美の二人を相手に孤軍奮闘する緒川麻琴の姿が。


「おがわ・・・・」


麻琴は紅と絵美に代わる代わる攻撃されながらも、マットに倒されるたびに起き上がって二人の方に向かっていく。


“緒川、無理したらアカン・・・”


リング上の緒川を心配しながらも、裕子はリングに向かう事が出来なかった。
裕子の脳裏に、卒業マッチでグロッキーになりながらも相手に立ち向かっていこうとした矢口真理の姿が浮かんでくる。


“裕ちゃんの前で恥ずかしいトコ見せたくなかったから。”


試合の数日後、矢口はその時の気持ちを裕子にそう話してくれた。
麻琴も裕子が見ている事に気付いたら、限界以上に無理してしまうかも知れない。



“緒川、もうええから!はよ倒れてしまい!”



裕子が心配そうに見つめる中、リング上ではもはや反撃出来ずに防戦一方となった麻琴に、紅のハイキックが炸裂する。



“バシィーーッ!!”



紅の脚が麻琴の顔面を捕らえ、リング上に乾いた炸裂音が響き渡る。
ハイキックを受けた麻琴はふらふらと後退り、倒れるようにしてロープにもたれかかるが、トップロープにしがみついてマットに崩れ落ちないように踏張っている。


“緒川・・・アンタ何で・・・”


立っているのもままならない状態なのに、麻琴はそれでも試合を続けようとしている。
何が麻琴をそうさせているのか?



“アンタもしかして・・・紺野の為か・・・”



今日の試合は麻琴と麻美の“卒業マッチ”である。
裕子は会場に来たばかりなので詳しい状況が分からないが、麻美はさっき担架で運ばれていったので、今戦うことが出来るのは麻琴だけなのである。

同じオーディションで合格して“娘。”に加入し、同じように新たな夢を見つけて卒業いく同志、麻美と麻琴。
裕子が「飯田香織」や「阿部なつみ」に抱いている感情と同じものを、二人は持っているに違いない。
自分が見ていようがいまいが、麻琴は意識がある限り相手に向かっていくだろう。


リング上では、麻琴がつかまっていたトップロープから手を離して、紅と絵美の方に向かっていこうとしていた。
驚異的な粘りを見せる麻琴の姿に、紅と絵美も動揺を隠すことが出来ない。
ここで絵美がロープに走り、麻琴の顔面に強烈なビッグブーツを見舞っていくが、麻琴は体を仰け反らせながらも、両腕を回してバランスをとりながら倒れないように踏み留まっている。
しかしそこに追い討ちをかけるように、紅のハイキックが炸裂し、麻琴はついにマットに崩れ落ちる。



“まことーーー!!!”


麻琴の壮絶なダウンシーンに、絶叫するセコンドのオハプロメンバー達。
しかし彼女達は直後に目の前で信じられない光景を目の当たりにする。

紅のハイキックで崩れるように俯せにダウンした麻琴が、両手で這うように紅と絵美の方に向かっていこうとしていた。


“麻美ちゃんの分まで、ワタシが頑張らないと・・・”


もはや正気の沙汰とは思えない麻琴のその粘りに、会場の誰もが言葉を失っている。
しかしもはや麻琴に戦う力は残ってなかった。


「ったく・・・しつけえんだよ、このゾンビ野郎!」

市川絵美は吐き捨てるようにそういうと、ほぼ同時に麻琴の方に向かっていこうとした紅を制し、麻琴に近づいていく。
絵美は立ち上がろうとしている麻琴を覆いかぶさるようにして捕まえると、そのまま高々と抱え上げてハイアングルパワーボムの体勢に入る。
リングとほぼ垂直の状態にまで持ち上げられた麻琴の表情は朦朧としていて、技を切り返すどころか、受け身をとろうとする気配さえ感じられない。
しかし絵美は手加減する事無く、麻琴の体を思い切りマットに叩きつけていく。



“バアアーーーン!!!!”


麻琴の身体が脳天から危険な角度でマットに叩きつけられ、会場に大きな衝撃音が鳴り響く。
麻琴はマットに倒れたままピクリとも動かない。



“カンカンカンカン!!!”


スリーカウントもノックダウンカウントもないまま、突如試合終了を告げるゴングが鳴らされ、会場は騒然とした雰囲気になる。
リング上ではオハプロのメンバー達が麻琴の周辺を取囲んでその容態を心配し、試合に勝利した紅と絵美が純情クラブのメンバーとハイタッチをかわしている。
やがて麻琴を取り囲む輪の中から「アフタヌーン娘。」の現リーダー、芳澤ひとみが立ち上がり、怒り心頭の様子で紅達に向かっていく。


「おまえら、よくも麻琴をーーー!!!」

このひとみの行動が呼び水となり、リング上でオハプロと純情クラブの大乱闘が始まった。




「スイマセン!どいて下さい!!」


リング上で大乱闘が繰り広げられている一方、裕子は観客をかきわけるようにして通路の方に向かっていた。
裕子が通路に一番近い場所に辿り着くと、担架に乗せられた麻琴が裕子の目前にやってくる。


「仲澤さん・・・」


麻琴の傍らに付き添っていた高橋藍が裕子に気付き、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、じっと裕子の顔を見つめている。
すると担架に乗せられた麻琴が藍の声に反応し、ダメージで首が動かない分、顔をわずかに裕子が立っている方向に向けて何かをつぶやきはじめる。
会場のざわめきで声は全く聞こえないものの、裕子は麻琴の唇の動きでその言葉を理解した。



“なか・ざわ・さん・・・ごめん・な・さい・・・”


麻琴を乗せた担架が出口に向かっていくのを、裕子は黙って見つめていた。



“アホッ、何であやまんのや!アンタ最後までよう頑張ったやないか!”


裕子は喉まで出かかっていたその言葉を口に出す事が出来なかった。
今の麻琴に対してどんな大層な言葉を並べても、それは薄っぺらなモノにしかならないだろう。



“ワタシなんかに謝るな!アホッ!!”


麻琴が運ばれていった通用口の方をじっと見つめる裕子の目から涙が溢れだした。



リング上では相変わらずオハプロ勢と純情クラブの乱闘が続いていた。
しかしこの日会場に来ている十数名のオハプロ勢の中で、そこそこの実力があるのは現リーダーの芳澤ひとみくらいである。
一方純情クラブはデビュー時から地下プロレスに力を入れている上に、メンバー全員がこの会場に集まっているため、人数的にも倍という事になる。
裕子や「飯田香織」「後藤真樹」といった実力者が来ていれば多少状況は違ったのだろうが、戦況はオハプロ勢が圧倒的に不利であった。



「いってぇー・・・」

乱闘に参加していた矢口真理はリング下で腰を押さえていた。
負けん気だけならオハプロナンバーワンの矢口だが、身長が145センチしかない為、この乱闘でも純情クラブのメンバー達の手でリングから放り出されてしまっていたのだ。


「ちっくしょ〜!!」

声をあげて気合いを入れた矢口が再びリングに上がっていこうとすると、背後から矢口の肩をつかむ手が。


「裕ちゃん・・・」

矢口が振り返るとそこには目を真っ赤にした裕子が立っていた。
リング上をじっと見つめる裕子は、矢口がこれまで見た事のない厳しい表情をしていて、いつものように言葉をかける事ができない。
裕子は矢口の顔に一度も視線を向けないまま、ゆっくりとリングに上がっていった。



リングに上がった裕子の目の前では、裕子と同じ「アフタヌーン娘。」の第一期メンバーである阿部なつみが、純情クラブのメンバーに二人がかりでボコボコにされている。
裕子はなつみを襲っている内の一人に背後から近付き、おもむろに髪をつかんでヘアーホイップで場外に投げ飛ばしてしまう。


「裕ちゃん・・・」

さきほどの矢口と同じく、突然姿を現した裕子に驚くなつみ。
一方裕子も矢口の時と同じように、なつみに一瞥もくれずにゆっくりとリング中央に向かって歩きだした。

裕子がリングにあがった事で空気が一変し、それまで乱闘を繰り広げていたオハプロと純情クラブのメンバーは一斉にその手をストップする。
裕子の周辺にいた者は皆、ただならぬ殺気を感じて後退り、まるでモーゼの“十戒”のように裕子の前に道が出来あがり、裕子は周囲の視線を浴びながらゆっくりとその道を歩いていく。そして裕子の向かう先には、麻琴をKOした紅と絵美の姿が。
そして紅と絵美も裕子に呼応するかのように、裕子の方に向かって歩きだした。




「へえー・・・誰かと思えば、玉の輿に乗り損ねたオバサンじゃない!」


荒城紅が裕子に向かってそう言い放つと、オハプロのメンバーの表情が一斉に険しいモノに変わるが、誰も紅に向かっていこうとはしなかった。


“アンタら手ぇ出すんやないで!!”


決して口に出した訳ではないが、目の前にいる裕子の背中がそう言っている事をメンバー全員が感じ取っていた。



「ねえ、オバサン。お願いだから今度はもっとマシな相手用意してくれないかなあ?!ワタシも紅も全然試合した気がしないんだよね!」


さらに追討ちをかけるように絵美が裕子を挑発すると、背後にいた芳澤ひとみが血相を変えて紅達に向かっていこうとするが、横にいた矢口真理が抱きついてこれを制する。
矢口もひとみと同じ気持ちを抱いていたものの、裕子の顔をつぶすような事はしたくなかった。
紅達の言葉にオハプロのメンバー達が熱くなる中、黙っていた裕子がついに口を開いた。



「なあ・・・試合、見せてもうたけど・・・アンタら、そんな強いんか?」


裕子の言葉はそこで終わったが、紅と絵美にはその続きが聞こえていた。


“アンタらじゃ、ワタシには勝てん!”


「何だとこの野郎!!」

絵美がそう声を荒げて裕子に歩み寄ろうとすると、紅が手を伸ばして絵美を制し、自ら裕子に歩み寄っていく。


「ワタシ達がホントに強いかって?じゃあ試してみる?」

紅は言い終わった瞬間、裕子の顔面目がけて拳を振りぬいた。


“バキッ!!”


紅の右フックが裕子の顔面にまともに入り、乾いた打撃音がリング上に響き渡る。
裕子はパンチを受けながらも、その場から一歩も動かずに紅を睨み返し、かすかに笑みを浮かべながらポツリとつぶやいた。



「・・・ええパンチや・・・」

表情一つ変えずにそうつぶやく裕子。
しかし頬には青アザができ、その口元からはツーッと糸をひくように血が流れだしている。
決してダメージが無い訳ではないだろう。

一方紅は裕子が倒れるどころかよろめきさえしなかった事に驚いてはいたものの、拳に十分な手応えを感じていたので、取り乱す事はなかった。


「どうした?・・・もう終わりか?」

裕子が紅を挑発するようにそう声をかけた直後、紅のハイキックが裕子の側頭部を襲った。



“パアァーーン!!”


再び乾いた打撃音がリング上に響き渡り、パンチは耐えた裕子も今度はさすがに崩れるようにしてマットに片膝をつく。


「ヤセ我慢してんじゃねえよ、ババア!!卒業?笑わせんじゃねえよ!要はこの世界でやってく自信がなくなった、ただの負け犬じゃねえか!アンタも結局玉の輿に乗れなかったんだから、いつまでもしがみついてないで、とっとと定年退職したらどうなんだよ!!」


目の前で跪いている裕子を有りったけの言葉で罵倒する紅。
すると芳澤ひとみが“もう我慢できない”とばかりに自分を押さえていた真理を振りほどいて紅に詰め寄ろうとするが、裕子が腕を横に伸ばしてこれを制する。
ひとみが怒りで肩を震わせながらも渋々その場に立ち止まると、跪いていた裕子がゆっくりと立ち上がった。



 “ゴキッ!!!”


裕子が立ち上がった直後、鈍い打撃音がリング上に響き渡り、裕子の前に立っていた紅が両膝からストンとマットに崩れ落ちる。


「おごっ・・・・」


マットに両膝をついた紅は片手で口元を押さえていて、その手からあふれるようにマットにポトポトと血がしたたり落ちている。
裕子の強烈な拳が紅の顎を貫いていたのだが、空手の心得があるにもかかわらず、紅には全く裕子の拳が見えなかった。



「なあアンタ・・・紺野と緒川の事、“負け犬”って言うたなあ・・・じゃあ今ワタシの前でへたりこんでるアンタは何や?」


紅の事を見下ろしながら冷ややかな表情で語る裕子。裕子の一撃の拳はさっきまでの紅の強気な表情を怯えの表情に一変させていた。


「この野郎、調子に乗ってんじゃねえーー!!!」


ここでやりとりをそばで見ていた絵美が裕子に殴りかかっていくが、裕子に一睨みされた瞬間、その視線の鋭さに思わず立ち止まってしまう。
そしてそれは絵美にとって「命取り」となる行動だった。


“ゴキッ!!!”


さっきと同じような鈍い打撃音がリング上に響き渡り、紅と同じように絵美が両膝からストンとマットに崩れ落ちていく。
紅でさえ見えなかった裕子の拳は当然絵美にも見えていなかった。
そして両膝をついた絵美が両手をマットに下ろした瞬間、さらなる悲劇が絵美を襲った。



“パアーーン!!!”



乾いた炸裂音に続いて絵美が「ドサッ」と音を立ててマットに崩れ落ちる。
マットに四つんばいになった絵美の頭部を、裕子のサッカーボールキックが襲ったのだ。
それは「麻琴にとどめをさした事」と「紅のように正面から向かってこなかった事」に対する裕子の怒りの現れであり、紅をはじめとした純情クラブのメンバーへの見せしめであった。


絵美の壮絶なKOシーンに純情クラブのメンバーはおろか、オハプロのメンバー達も体を震え上がらせていた。
裕子の怖さはわかっているつもりだったが、ここまで怒りに満ちた裕子を見るのは、彼女と一番長い付き合いの阿部なつみでさえも初めてであった。


絵美をノックアウトした裕子がその視線を再び紅の方に向けると、紅は「あっ、あっ、」と言いながら首を左右に振りはじめる。
裕子のパンチを受けた事でまともにしゃべれない紅は、怯えた眼差しとその懸命なリアクションで裕子に許しを求めていた。



「何やあんた・・・麻琴はなあ、今のアンタよりひどい状態でも、アンタ等に向かっていったぞ。アンタが負け犬呼ばわりした麻琴や・・・」


裕子はゆっくりと紅に顔を近付けながら、静かな口調で紅に語り掛けている。
紅はこの場からすぐにでも逃げ出したかったのだが、裕子に対する恐怖で体がすくみ、目に涙を浮かべて体を震わせるだけで何もする事ができない。



「アンタ負け犬と違うんやろ・・・違うんやったらかかってきてみぃ!!!」



それまで静かな口調だった裕子が突然声を荒げると、紅をマットに押し倒してマウントポジションを取り、紅の顔面目がけてパンチを連発していく。



“バスッ!ドスッ!ゴキッ!ドスッ!”



興奮状態の裕子のパンチは大振りで、紅か本能的に両腕でしっかりガードをしている為、なかなかクリーンヒットはしない。
しかし“完全にキレた”裕子の圧力は圧倒的で、次第に紅のガードが壊れ始める。

さすがにこのままでは危険と感じた阿部なつみ、矢口真理、芳澤ひとみがリングに上がり、裕子を取り押さえようとするが、興奮状態の裕子は小柄ななつみと真理を強引にはらいのけると、一番大柄なひとみまでも投げ飛ばしてしまう。

邪魔者を蹴散らした裕子は再び倒れている紅のところへ行き、強烈なマウントパンチを連発する。



“ゴキッ!ドスッ!ゴキッ!バスッ!”



もはや紅に抵抗する力は無く、裕子の強烈なパンチが次第に紅の顔面を捕らえはじめる。
オハプロと純情クラブのメンバー達も“危険な状況”とわかっているものの、裕子に対する恐怖で止めに入る事ができない。
するとさっき裕子に投げ飛ばされてリング下に転がり落ちたひとみが再びリングに上がってくる。


「何やってんだよ!!アンタ達も早く助けにいけよ!!」


リングに上がったひとみが呆然と立ち尽くしたままの純情クラブのメンバー達に向かってそう声を荒げると、ようやく純情クラブのメンバー達は紅を助けようと裕子に向かっていく。
一方オハプロのメンバー達も、なつみと真理が必死に裕子にしがみついているのを見て、裕子に向かっていく。


 「仲澤さん止めて下さい!!!」

 
 「裕ちゃんそれ以上やったら死んじゃうよ!!!」

 
 「裕ちゃーーん!!!・・・・・・・」







卒業マッチから一夜明けた翌日。
裕子は所属事務所の社長に連れられ、大須賀プロモーションを訪れていた。

卒業マッチで試合後、紅と絵美に大怪我を負わせた事に対する謝罪が目的であったが、大須賀側も「こちらにも行き過ぎた部分があった」と裕子の一方的な非ではない事を認め、いち早く謝罪に来た裕子に寛大な対応をした。

紅と絵美の治療費や休業中のギャランティに関しては地下プロ主催者が保障する契約となっていたので問題無かったが、紅がかなりの重傷を負っている事をアップルフロント側は重く受けとめ、紅が芸能活動を再開するまでの間、裕子の芸能活動を自粛させる事を大須賀サイドに伝えた。




芸能事務所アップルフロントエージェンシーの一室。
中では裕子が一人、うなだれた様子で椅子に座っていた。

大須賀プロモーションから戻って来た裕子は、ほんの少し前までこの部屋で社長と面談していて、地下プロでの行為に対する厳重注意を受けた後、「活動自粛」の処分を正式に言い渡されていた。

その後特に事務所に残るよう指示された訳ではないのだが、特に予定があるわけでもなかったので裕子は何となくという感じで部屋に残っていた。
裕子が行き過ぎた行動で事務所に迷惑をかけてしまった事を改めて反省していると、「トントン」とドアをノックする音が。



「あっ、はい・・・」



ノックの音を聞いた裕子があわてて顔を上げて返事をすると、ガチャッという音とともにゆっくりとドアが開く。
裕子は現われた人物の顔を見て、思わず顔を伏せてしまう。



「・・・聞いたでぇ!何や相手ボッコボコにしたそうやないか!」



部屋に入ってきたのは新婚ホヤホヤのオハプロのプロデューサー、とぅんくであった。
裕子に気を遣っているのか、とぅんくは開口一番冗談っぽい口調でそういいながら裕子に近付き、隣の席に座る。
しかし裕子はとぅんくの言葉に返事もせず、黙って俯いたままであった。



「まあ、阿部や矢口から色々聞いてるし、気持ちはわからんでもないけど・・・ちょっと、やってもうたな!・・・まあお前の事やで、十分自分で解ってんのやろうけど・・・」


くだけた口調はかわらないものの、裕子を諫めるように言葉を続けるとぅんく。


「・・・すいません・・・」


裕子はようやく絞りだすようにして謝罪の言葉を口にしたものの、相変わらず俯いたまま、とぅんくの顔を見る事ができない。



確かに今回の事件の引き金となったのは、後輩緒川麻琴が大須賀プロの二人にやられた事である。
しかし裕子自身、緒川の事だけであそこまでエスカレートしてしまったとは思えなかった。

裕子は自分がずっと前に心にしまったつもりだった「一つの感情」が、“とぅんくの結婚”のニュースを聞いた時から揺れ動き始めたのを自覚していた。
そんな時に、あのリング上で紅に浴びせられた心ない一言。


“玉の輿に乗れなかった”


それが、自分の理性を失わせる引き金となったのでは、とそんな風に思えてならなかった。

別に“玉の輿”に乗りたかったわけじゃない。
でもとぅんくの結婚という事実を受け入れられない自分が、心の中のどこかに確かに存在しているのだ。



そして裕子だけでなく、実はとぅんくにもかつて裕子に対して「一つの感情」を抱いていた時期があった。

しかしその時は裕子の方にそういった意識が無く、とぅんくはプロデューサーとして「アフタヌーン娘。」を育てることを第一に考え、裕子への感情を「錯覚」だったと結論付けて、自分の胸にしまいこんでしまった。

その後、今度は裕子が自分に対してそういう感情を抱き始めたことに気付いたものの、とぅんくはプロデューサーと歌手というスタンスを崩さなかった。
結局裕子も、かつてとぅんくがそうしたように、「アフタヌーン娘。」のリーダーである事を第一に考え、とぅんくへの思いを封印してしまった。




「なあ仲澤・・・俺はこれからも、出来る限り、お前の力になってやりたいと思てる・・・でも昔と違って、俺が力になれやん事もできてしもた・・・」



とぅんくはさっきまでとは違う真面目な口調で、言葉を選びながら、俯いたままの裕子に語りかけている。


「でもそれはきっと、お前にもう、必要のない事なんや・・・俺が力貸さんでも、お前一人で出来る事なんや・・・」



“自分なんかよりももっと、裕子の事を思ってくれる人が見つかるはず”



とぅんくが裕子に言いたかったのはそういう事だろう。
とぅんくの言葉を理解した裕子の目から、自然に涙が溢れだした。




「何や仲澤〜!びっくりするやないか〜!」

裕子の涙に気付いたとぅんくは、顔をくしゃくしゃにして笑いながら、まるで子供をあやすかのように、裕子の頭を撫で回す。



「・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」

嗚咽を洩らしながら何度も謝る裕子を見て、とぅんくは何もいわずにうん、うんと頷いている。

その状況のまま数分が過ぎ、裕子が落ち着きを取り戻し始めると、とぅんくは少しほっとした様子で立ち上がる。


「じゃあ、行くわ・・・」

裕子が俯いたまま力無く頷いたのを確認し、とぅんくはドアに向かって歩き出す。
そしてとぅんくはドアノブに手を掛けた瞬間立ち止まり、裕子の方を振り返ってこう言った。


「仲澤・・・緒川と紺野の為に、ありがとな・・・」


とぅんくがそう言ってドアを閉めた直後、裕子の目から再び涙が溢れだす。
部屋を出たとぅんくは裕子の嗚咽を聞いて一旦その場に立ち止まるが、思い直して足早にその場を去っていった。




事務所から帰る途中、裕子の携帯に着信が入った。
「きっと事務所からだろう」と思いながら画面を確認すると、発信者は「飯田香織」となっている。
裕子が携帯に出ると、香織は不自然なくらい明るい口調でまくしたてた。



「あっ、裕ちゃん!○曜日空いてる?空いてるよね!!・・・・・」









「・・・裕ちゃんは大人だよ。初めてあった時から・・・あの頃ウチら、みんなまだ子供で、何にも解ってなくて、裕ちゃんが色んな事全
部しょいこんじゃってて、そんな事も気付かなくって・・・ワタシ、リーダーになった時初めて解った。裕ちゃんがどれだけ大変だったか
・・・だから、裕ちゃんは、大人だよ。・・・ずっと前から・・・大人だよ。・・・」



落ち込んでいる裕子の事をフォローしようと、必死になって話す香織。
すると、俯き加減に香織の話を聞いていた裕子が顔を上げ、ポツリとこう言った。



「・・・香織に言われたないわあ・・・」



さっき香織に言われた“裕ちゃんに言われたくないよ〜!”という言葉への“お返し”だった。



「何よ〜、人がせっかくフォローしてあげてんのにぃ〜!」


香織がそういいながら、すねたようにほっぺたを膨らませると、その表情がよほどおかしかったのか、裕子は思わず吹き出してしまう。
そして香織も裕子につられて吹き出してしまい、それまで静かだった二人のテーブルがたちまち明るい雰囲気に包まれる。
それから二人は久々に、ここ最近する事のなかったデビュー当時からの思い出話に花を咲かせた。



「あっ、もうこんな時間!裕ちゃん、もう出ようか?!」

「そやな・・・あっ、香織ごちそうさま!」

「え〜っ?!ちょっと裕ちゃんカンベンしてよ〜!!」

「普通は誘た方が払うモンや!誘たんはアンタやろ!しかも遅れてくるし〜!」

「ひっど〜い!裕ちゃんそれでも大人?!」

「ああ大人や!でも香織も大人やろ?やで香織が払い!」


まるで漫才のようなやりとりの後、結局香織が勘定を持つ事になった。




店から出た香織は、両手を高々と上げ、気持ち良さそうに空を見上げている。
そんな香織の背中を見ながら裕子はためらいがちに声をかけた。


「香織・・・」


「うん?」


「・・・ありがとう・・・」


「何よ〜急に〜っ!そんな事いったって、今日はもうこれ以上出さないからねっ!」


「そんなんちゃうわ!アホッ!」


いつもの口調でつっこむ裕子に、香織は安心したようにニッコリと笑った。

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