1:午後六時・宮間高校にて
 (どうして・・・どうしてこんな事になっちゃうの)夕闇せまる体育館の中で少女は心の中で呟いた。茶色のかかったショートカット、幼さが残る端正な顔立ちの彼女は体操着にブルマ、そして紺のハイソックスに上履きという服装でブレザーを着た男女の一群に囲まれて立ち尽くしていた。目の前には自分と同じいでたちをした長い黒髪の大人しそうな少女が立っていた。言うまでもなく、みな彼女の同級生である。
 突然、彼女と黒髪の少女を囲んでいる一群のリーダーらしき少年が、まだ声変わりしていないカン高い声で、この息苦しい静寂を破った。「ルールは簡単、相手をツブした方の勝ち。それ以外は何でもアリだ・・・おい聞いてんのかカオリ!」名前を呼ばれた彼女・・・カオリはハッと我に返り、慌てて振り向いた「わ、分かってるわよ、リョウ」リョウとよばれたリーダー格の少年とその周りの同級生は嘲笑うような視線をカオリに向けた。カオリは眉をひそめた。
 「あ、あの・・・本当にコレに勝てば、私、もうイジめられないんですか」カオリの目の前にいた黒髪の少女が、おびえた口調でリョウに聞いてきた。「約束するっつってんだろ清美!そんなに俺たちが信用できねぇのか!」リョウが高圧的な態度で切り返した。「もっとも勝てばの話だ、負けたらどうなるか分かったもんじゃねぇけどな」リョウの言葉に周囲の少年達から下品な笑いがもれ、清美とよばれた黒髪の少女は泣きそうな顔で小さくなった。カオリの顔は更に険しくなった(ウソばっかり・・・)イジめる側の言い分というものは、そんなものである。彼らは”獲物を狩る”為ならば、それこそ台所の生ゴミのようにいくらでも屁理屈や言い訳を生み出す事ができるものである。
 「じゃぁ始めるぞ、おいケンジ、あれを出せ」リョウが自分の向かい側に立っている体の大きな少年に向かってアゴをしゃくった。ケンジは持っていたカバンの中からゴングを取り出した。ボクシング部のエースであるケンジにとって部の備品を持ち出す事は造作もない事である。「用意はいいか」リョウの言葉に二人はサッと身構えた。
 カーン
 薄暗い体育館にゴングの音が響き渡り、闘いの火蓋が切って落とされた。

ゴングが鳴ってから、どれくらい時間が経過しただろうか。カオリも清美もどうしていいか分からず身構えたまま、輪の中をさまよっている風だった。たまにカオリが手を出してみるが清美の首を引っ込める姿を見ると、それ以上せめる事は出来なかった。後ろに下がれば見物している連中に押し戻されるかヘタをすれば背中を蹴られる始末で何とも歯がゆい思いのカオリであった、周囲の野次や罵声は更に大きくなる。
 争い事のキライな清美をよく知るカオリにとって今回の件は出来る事なら避けたかった。カオリと清美は女子サッカー部の同期であったが、マイペースで大人しく万年補欠の清美とは対照的にカオリは明朗で運動神経も良く、女子サッカー部のキャプテン候補とまでいわれていたが、それが周囲の嫉妬をかってしまい、更に清美をかばっていた事でイジメのターゲットにされてしまったのである。やがてカオリは部長のユニフォームを盗んで焼いたという濡れ衣をきせられてしまう。もちろんカオリの事を妬む同級生の部員の仕業である事は明白だがいかんせん証拠がない。結局その部員に自白させる事を条件に今回の勝負を受ける事にしたのである。
 こうしてカオリは、あえてリョウ達の策略に乗り”対戦相手”として清美の前にたった訳だが、やはり大好きな清美を殴るのは死ぬほどつらいことであった。だが負ける事はできない。仮に負けてやったとしても連中の事だ、清美が大人しいのをいい事にイジメを再開するに決まってる。イヤ、ヘタをすれば負けた自分の目の前で・・・恐ろしい想像を振り払うように頭をふった。(とにかく清美を気絶させて連中をやりすごし、清美を抱えてこの場を脱出しよう。たとえ命に代えても愛する清美だけは守りたい)意を決したカオリはぐっと脇を締めて注意深く清美との距離を詰めていった。清美の動きに変化がないと分かるとカオリは素早く清美の左側に回り込み、清美に掴みかかろうとした。すると清美はクルリと反転して体を引きカオリの手をパァンとはじいた(うそ!)カオリが予想外の出来事に目を丸くしたその瞬間・・・
 カオリは目の前が真っ白になった気がした。気がついてみると体育館の天井が目に入った。1〜2秒おいて自分が倒れている事に気が付くと慌てて起き上がった。何故か鼻が熱く、ズキズキ痛む。鼻からドロリとした赤黒い血が流れ出るのが分かった(何、何が起こったの?)後ろに手をつき、両足を前に出した体勢でカオリはゆっくりと顔を上げた。そこにはつぶらな瞳をカッと見開き、カオリと血に塗れた自分の拳を交互に見つめてブルブル震える清美の姿があった。
「清美・・・どうして?」カオリは流れ出る鼻血も拭かず、黒く澄んだアーモンド型の眼を見開いて呆然と清美を見つめていた。清美もまた直立不動のままカオリを見つめていた。ふっくらとした肌に汗がにじみ、二つの小さな鼻孔と薄桃色の花びらのような唇から生臭い息を漏らし、丸みのある小さな体を小刻みに震わせていた。
 突然、リョウがあのカン高い声で笑い出した。それにつられるように周囲から爆笑・哄笑が湧き上がった。「どうだい清見、ウマくいっただろう」リョウの言葉に清美は背中越しにうなずいた。(そんな・・・)カオリは全てを悟った。格闘マニアのリョウが清美に自分の持っている知識を”仕込んだ”のだ。しかもここにいる全員が共犯である。カオリは歯ぎしりしたが思わず血のカタマリが喉に入り込んでしまいその場で咳き込んだ。その時、清美がリョウに話し掛けてきた。「ねぇ、リョウ君・・・もしカオリに勝ったら、私と付き合ってくれるって、本当?」「ああ、もちろんだ。俺は強い女が好きだからな」清美はニタァと笑い、カオリを見下ろした。「この野郎、馬鹿いってんじゃないよ!清美、お願いダマされないで!」身を乗り出したカオリの言葉をさえぎるように、清美は無言で蹴りを放った。蹴りはカオリの側頭部に命中し、カオリはショックと激痛でその場にうずくまった。周囲からひときわ高く歓声が上がる「いいぞ清美、そのままカオリを潰しちまえ!」リョウの言葉を受けて清美はゆっくりとカオリに歩み寄っていった。

薄暗い体育館の中に歓声や黄色い声が響き渡り、女子の一群から、いつしか「キ・ヨ・ミ!キ・ヨ・ミ!」という声が上がっていた。16年間、おとなしくて地味でカオリ以外の誰からも相手にされなかった清美にとって、まさに至福の時であったが、親友であるカオリを蹴落として手に入れたドス黒い喜びでもあった。
 清美に声援を送った女子の一群はカオリや清美と同じ女子サッカー部員であった。カオリのレギュラー候補の話を聞いた彼女達はまるでケモノの本能のようにカオリを妬み、憎んだ。彼女達は、才能豊かで明るく人望もあって周囲から慕われているカオリがどうにも気に食わなかったのだ。彼女達はカオリと清美の関係を利用するようにリョウ達に言いより、リョウ達も喜んで協力した。
 あとは前回の話の通りであるが、ともかく彼等の目論見は見事に功を奏し、カオリは今、愛する清美の手でとどめを刺されようとしていた。
 足を止めた清美がうずくまったままのカオリの頭を狙い、蹴りを放とうとした瞬間、「痛いよう・・・」うずくまったカオリの中から泣きそうな声が漏れ、清美は思わず蹴りを止めた。(今だ!)カオリはバネのように飛び出し、そのまま清美を押し倒し、馬乗りになった。「騙したのね!」と叫ぶ清美に「お互い様よ!」とカオリは切り返し、左手で清美の胸ぐらを掴むと右の平手を清美の顔に叩き込んだ。
 パァン、パァン、パァン、少女の白く柔らかな頬を叩く音が小気味良く響き渡り、叩く平手に更に力がこもった。その耳に刺さるような痛々しい音はカオリの怒りと悲しみを代弁しているようでもあった。清美の頬は叩かれるうちにみるみる赤く腫れてゆき、涙と鼻水とヨダレにまみれ、口腔内の空気と一緒に唾液が飛び出した。カオリもまた泣いていた。涙と鼻水で自分の顔を汚していた。もはや自分が何に対して怒っているのか分からない程であったろう。清美の意識は薄れかけていたが、それでも負けじと右足を跳ね上げた。右足はカオリの背中に命中し、カオリは「ごふっ」と空気を吐き出して動きを止めた。清美が自分の体を押し上げるとカオリは横に転倒した。周囲が固唾をのんで見つめる中、二人はゆっくり立ち上がった。清美のふくよかで愛らしい頬は真っ赤に痛々しく腫れあがり片側の鼻腔から流れ出る血が平手打ちの凄まじさを物語っていた。やがて周囲から再び歓声と罵声が湧き上がった。(もう容赦はしない・・・)カオリと清美は全身の毛穴という毛穴から憎悪をふき出し、それが血と汗と涙とヨダレの匂いと混じり合い、一種のケモノ臭くて息苦しい濃密な空間を作り出していた。
 体育館の時計は6時半を過ぎ、窓の外には夜のとばりが下りていた。体育館内に明かりが灯るとカオリと清美は互いを睨み据えたまま静かに動き出した。
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