美女と野獣




「別にいうことなんて何にもね〜よ。まぁ、そうだな。あんまりにも弱っちぃな
ら勢いあまってってこともあるかもしんねぇし。手加減くれぇはしてや んよ」


「私のやり方を貫いて、前回の借りを返します。それだけです」



 リング上でプリンセス美沙希が対戦相手のパイソン磐井を待ちかまえていた。
リングネームの通りにドレスとティアラを身につけた姿はプロレス界随 一の美
少女と呼ばれるだけ有り、プロレスラーとは思えないほどに可憐だ。
 そして、反対側のコーナーからパイソンが入場してきた。164センチの美沙
希とより10p以上長身の身体に、女性らしい美沙希とは対照的な絞り 込まれ
た筋肉が張り付いている。革のボンテージ調のコスチュームを纏い、どう猛そう
な印象に。そして、その右手にはトレードマークのチェーンが握 られていた。
 美沙希とパイソンは同年で同期の間柄だが、全くと言っていいほどに経歴が
違った。美沙希がまじめに高校に通っている間、パイソンは高校を抜け出 し、
ケンカ三昧の日々を送っていた。それだけに、パイソンから見て美沙希は鼻につ
くタイプだったのだろう。
 美沙希とパイソンがシングルで対戦するのはこれが2回目である。まだデ
ビューして間もない頃、パイソンは得意のケンカ殺法で美沙希を血の海に沈 め
た。結果としては美沙希の反則勝ちだったものの、試合の中身はパイソンの完璧
な勝利だった。それ以来、シングルで対戦することのないまま、美沙 希は実力
を高めてトップレスラーの一人となり、パイソンもトップヒールとして名をあげ
ていた。
 元々愛想のいいタイプではなく、根っからのヒールであるパイソンだが、この
日はひときわ不機嫌になっていた。美沙希は知らないが、美沙希がデ ビューし
て以来団体の経営は大幅に改善されている。そのため団体は美沙希を金の卵を産
むガチョウと見ているのだ。そして、さらにその人気を高める ための方策を考
え、実行されたのがやらせだった。
 団体社長がパイソンに、美沙希にも観客にも分からないようにして美沙希を適
度に痛めつけた後、美沙希が逆転勝利を収めるよう指示したのだ。ここ で失敗
だったのはこの話を持ちかけたのがパイソンだったと言うことだろう。
 美沙希とパイソンの不仲は有名であり、その分だけシングルで対戦すれば話題
性もある。団体上層部はこの決定を皮肉な形で受け取ることになる。



 選手紹介を受け、リング四方の観客にお辞儀をした美沙希はパイソンに背を向
け、自コーナーへ向かった。ドレスを脱ごうと、パイソンから注意を逸 らした
そのとき、観客席からざわめきが走った。


「っ!?」


 あわててふりむいた美沙希だったが、そのときにはパイソンは眼前まで迫って
おり、彼女のアックスボンバーが美沙希の小柄な体躯を場外へと吹き飛 ばした。
 スタッフがとっさに場外へ転落した美沙希を受け止めたものの、不意打ちのダ
メージは大きく、美沙希はドレスを纏ったまま場外でダウンする。
 続いて場外へ降りてきたパイソンが、美沙希の髪を鷲掴みにして立ち上がらせ
ると場外の鉄柵に向け、力任せにスローする。ろくな抵抗もできないま ま鉄柵
に向かって投げられた美沙希はドレスに足を取られ、鉄柵の手前で転倒し、勢い
よく鉄柵に体をぶつけた。


「あぐぅっ!!」


 鉄柵が背中に食い込み、苦悶の声を上げる美沙希。何とかこの場を逃れよう
と、歯を食いしばって立ち上がろうとするが、パイソンの追撃がそれを許 さな
かった。


「まだ終わってないんだよ!!喰らいな!!」


 ごっ!と、音を立て、パイプイスが膝立ちの体勢の美沙希の頭頂に叩き込まれる。


「あぅ‥‥‥」


 イスの底が抜けるほどの衝撃に、付けていたティアラが砕け、美沙希の端正な
顔に一筋の血が流れる。がっくりと膝を付いて頭を振る美沙希が体勢を 整える
暇も与えずパイソンのヤクザキックが美沙希の顔面を直撃した。


 がしゃんっ!!


 鉄柵とパイソンの足にサンドイッチにされた美沙希。ヒクヒクと手足が痙攣し
たまま、動く様子のない美沙希の様子に場内が静まりかえる。


「あっちゃぁ〜。ちょっとやりすぎちまったかなぁ?」


 薄ら笑いを浮かべたパイソンが足をどけると意識がとんでいるのか、焦点の合
わない瞳を虚空に浮かべた美沙希はそのまま顔面から場外に突っ伏し た。
 慌てて美沙希に駆け寄るセコンド達。ざわめきが走る会場の中、パイソンは不
遜極まる態度でリングに戻り、美沙希のセコンド達があわてふためくの を眺め
ている。
 美沙希の意識は完全にとんではいないが、大量の鼻血が美沙希のリングコス
チュームを紅く染め上げている。


「あ、ぐぅ・・・・・・、や、やるわよ・・・・・・。みんな、止めない
で・・・・・・」


 美沙希が立ち上がると顔から鮮血が会場を濡らし、場内の観客が悲鳴を上げる
が、美沙希は流血に怯むことなくドレスを脱ぎ捨ててリングに上がっ た。


「へっ、来たかよ鼻血女」

「・・・・・・くっ、来たわよ、卑怯者」


 脱いだドレスで顔をぬぐうが、鼻からの出血は止まることなく美沙希の顔から
下を赤く染め続けている。
 にやにやと笑いながらパイソンが身体を前傾に、腕はいつでもパンチを放てる
ように構えた。美沙希は両腕を上げ、正統派レスリングスタイルでパイ ソンに
対する。


 カーン!!


 ゴングが鳴り、パイソンがすぐさま飛び出した。スピードを付けたパンチが美
沙希を襲う。


「くっ、はぁっ!!」


 先手を打たれた美沙希だが、焦らずガードし、反撃の掌底でパイソンを迎撃す
る。鋭い一撃だったが、ケンカに関しては百戦錬磨のパイソンはそれを かわ
し、さらにパンチを放っていく。
 ボクシングでもそうそうは見られない乱打戦だが、次第に美沙希が不利になっ
てきた。鼻血が呼吸を阻害し、スタミナが普段より速く消耗していく。


「おらおら、どうしたぁ!!手も足も出ないかぁ!!」


 ついに美沙希の攻撃が止まり、パイソンの一方的なパンチの嵐が美沙希を襲
う。頭部をガードで固め、ただひたすら堪え忍ぶ美沙希だったが、パイソ ンは
構うことなく美沙希を後退させていく。


 トンッ。

「あっ!?」


 パイソンの猛攻に押されて後退していく美沙希の背に、コーナーの感触があ
たった。追い詰められた美沙希はパイソンの脇を通り抜けようとするが、 ケン
カでならしたパイソンはそれを許さない。


「逃しゃぁしないよっ!!」


 大振りのフックを美沙希は避けるが、コーナーからの脱出は阻まれてしまう。


「待てっ!パイソン、ロープだ!離れろっ!」


 コーナーに追い詰められた美沙希に向かい、パイソンがラッシュをかけようと
するが、それはレフェリーに阻まれた。
 パイソンはしばしレフェリーともみ合い、舌打ちをしてリング中央に戻る。
 対して美沙希は、コーナーにもたれながら荒くなった息を整えようとしてい
た。リングドクターが様子を見るが鼻からの流血はまだ止まる気配が無 く、リ
ングに赤い水滴が落ちる。


「おいおい、まぁだお嬢ちゃんは準備できないのかぁ?やる気が無いならさっさ
と帰れよ」

「・・・・・・どいて。続けるわ・・・!!」


 あからさまなパイソンの挑発。しかし、美沙希はその挑発に乗った。もとも
と、パイソンとのシングルマッチが決定した時点で試合が荒れることは覚 悟し
ていたし、なによりも前回勝利を譲られた屈辱は今でも美沙希に大きく影を残し
ている。
 格闘技をしているとは思えないほど可憐な美貌の下半分を流血で赤く染めなが
らもその瞳に浮かぶ闘志はレフェリーをたじろかせた。


「ファイッ!」


 一時中断していた試合がレフェリーの合図で再開された。
 試合開始と同じようにパイソンが飛び出し、美沙希はそれを待ち受ける。数分
前の焼き直しと思われる光景だが、パイソンが再び殴りかかったのに対 し、美
沙希はパイソンの目の前で身を沈めた。
 意表をつかれて殴りかかった体勢を泳がせるパイソンの足に、美沙希のかにバ
サミが絡みつく。体勢を整える暇も無くパイソンはうつぶせにマットに 倒れた。
 憤激に顔を赤く染めたパイソンに、美沙希のSTFが極まった。美沙希は空中殺
法を評価されがちだが、その他の技術も並ではない。むしろ、通の ファンに
とっては華やかな美沙希の飛び技を支える地力を評価する声のほうが高い。


「ぐぅううううううっ!!こ、のぉ!!くそあまがあぁああああっ!!」


 軽量の美沙希とはいえ、ここまでがっちりと関節を極められてはさすがのパイ
ソンも身動きを取りにくい。このSTFはパイソンにダメージを与える よりも、美
沙希が息を整えるのを目的にかけられている。それがわかるだけにパイソンは苛
立ちながらもなかなか近づけないロープに向かってもがく。


「ロープだ!離れろっ!」


 パイソンとは違い、美沙希はおとなしくレフェリーに従いSTFを解いた。
所詮は優等生と、美沙希を見下していたパイソンが憤りのあまり目を据わらせて
立ち上がる。


「てめぇ、死んらぅゆっ!?」


 ゆっくりと美沙希のほうに振り返ったパイソンだが、振り返った瞬間にその顔
面に美沙希のドロップキックが命中し、のけぞって仰向けにマットに倒 れこん
だ。何があったか理解できず会場の天井を見上げるパイソンの視界に、美沙希の
姿が入ってきた。


「とりあえずさっきの借りはこれで返すわ。どうしても辛くなれないわね。で
も、いいわ。前回の借りはこれから返すわよ」


 そういって、美沙希はパイソンの頭に片足を載せ、観客に向かいアピールす
る。因縁の深いパイソンを踏みつけにしたアピールに、会場が沸いた。


「て、めええぇっ!!」


 見下していた相手に踏みつけにされる、この屈辱に子供が泣き出しそうなほど
顔をゆがめて鬼の形相となったパイソンは踏みつけられていた脚を振り 払って
立ち上がった。
 雄叫びを上げながら美沙希に殴りかかるパイソン。しかし、怒りのあまり普段
の狡猾さがなりを潜めたパイソンの攻撃は美沙希にとって格好の餌食 だった。


「甘いわよっ!!」


 突進するパイソンの鳩尾に前蹴りをカウンターで入れて怯んだ隙に後ろに回
り、ジャーマンスープレックスで投げ飛ばす。今まで防戦一方だった美沙 希の
反撃に会場がボルテージを上げる。
 すでに鼻血は止まっており、体調は万全といえないまでも不自由は無い。もと
もと、評価としてはパイソンよりも美沙希のほうが上である。
 ときに宙を舞い、ときにマットに引き倒し、これまでに培った技術を活用し、
パイソンを翻弄する。


(ち、ちくしょう!!こんな、こんな女に・・・・・・!!)


 パイソンにとってデビュー当時の美沙希の印象は生真面目だけがとりえの優等
生に過ぎなかった。事実、前回の対戦では美沙希はすべてにおいてパイ ソンに
劣っていた。否、ただ一つ、根性だけは勝っていたが、その優等生的な粘りが何
よりも気に入らないパイソンはそれまで路上での喧嘩の延長で美 沙希を叩きの
めした。
 しかし、今パイソンは自分と美沙希の立場が逆転したことを思い知らされてい
る。そして、その認識がこれまでのレスラー経験の中次第に眠っていっ た路上
の喧嘩魔を呼び起こしつつあった。あのころ、ストリートで相手を殺しかねない
ほどに血と暴力に酔っていたあのころに。


「フォールッ!!」


 パイソンの猪突猛進な攻撃をいなし、そのままスープレックスで投げ飛ばした
美沙希がフォールに入る。スープレックスの体勢のままフォールされた パイソ
ンは動く気配を見せない。
 カウントスリーが入ったかに見えた瞬間、いきなりパイソンが動いた。それま
で動く気配を見せなかっただけに、意表をつかれて美沙希のホールドが 解け、
際どいところでカウントが止まる。


「粘るわね・・・・・・。でも、これで決めるわ!!」


 フォールを返したがマットに倒れたまま動かないパイソンに、美沙希の必殺
技、ムーンライトフォールの体勢に入る。ムーンサルトに心身宙返りを加 えた
だけだが、美沙希の跳躍力と姿勢の美しさから技に名前が付けられたのだ。
 前回の対戦の悪夢をここで断つかに思われた、そのとき。観客に向かいアピー
ルの体勢をとっていた美沙希の隙をついてパイソンが起き上がった。


「・・・・・・ッ!?」


 コーナー最上段でパイソンに背を向けていた美沙希は反応できなかった。背後
からのパイソンのドロップキック。プロレスは決して安全なものではな いが、
それでも不文律は存在している。パイソンはそれを完全に無視し、危険極まりな
い攻撃を仕掛けた。


「きゃ、あああああぁっ!?」


 悲鳴を上げながら美沙希は場外に落下していった。僥倖にも鉄柵は越えたもの
の、フォローするものも無いまま場外の観客席に突っ込んでいく。


 がっしゃあぁぁん!!


 会場の誰もがその光景に顔を青ざめさせた。あまりにも危険なパイソンの攻撃
にレフェリーが駆け寄るが、パイソンはそれに応じることなく観客席に 消えた
美沙希を追って場外に出る。
 美沙希側の付き人がそれを押しとどめようとするが、パイソンが一睨みしただ
けで凍りついたように足を止めた。その顔に浮かんだ狂気がそれを阻ん だのだ。


「く・・・・・・っ、くあぁ・・・・・・」


 一方、観客席に落下した美沙希は右ひざを抱えてうめいていた。コーナー最上
段からの落下に動転しながらも観客が下にいることに気づき、身を捻っ たの
だ。その甲斐あって観客に被害はなかったものの、右ひざをいすにぶつけ痛めて
しまったのだ。
 確かにひざは痛むが、立ち上がれないほどではない。体の状態を確認しながら
立ち上がろうとした美沙希の目の前に人影が立った。


「・・・・・・?い、痛あぁっ!!」


 誰かと思い顔を上げようとした瞬間、髪を鷲掴みにされ、観客席から体を引っ
こ抜かれた。


「な、何?放しなさいよっ!!」


 観客席から場外マットに髪をつかまれて引っ張り込まれた美沙希は右ひざの痛
みをこらえながらも相手を確認しようとするが、相手は問答無用に場外 で美沙
希を連れまわす。


「く、痛っ!放せぇっ!!」


 右ひざをかばい、ヒョコヒョコと歩きながら美沙希が相手の強引さに抗議す
る。が、返事の代わりにパイソンは美沙希をリングの鉄柱に叩きつけた。


「あぐぅっ!!」


 鉄柱にもたれかかってひざを付く美沙希。しかし、パイソンの攻撃はこの程度
では終わらなかった。ひざを付いた美沙希の髪を再び鷲掴み、そのまま 鉄柱に
額からぶつける。


 ゴキンッ!!


 美沙希の額と鉄柱がぶつかる音が会場に響く。あまりに大きな音に、観客が静
まり返った。
 一発だけでは終わらない。試合開始前の奇襲で傷ついた部分に集中して攻撃が
加えられ、見る間に鮮血が今度は額から垂れ流れてきた。
 その光景はまさに前回の焼き直しだった。違っているのは、前回はパイソンは
あくまでわざとやっていたこと、しかし今回は完全にストリートで恐れ られて
いた時代に立ち返っての攻撃だ。
 美沙希の顔が血でべったりと赤く染まり、抵抗が緩慢になる。


「かかっ!おら、てめぇら!!そこをどきやがれっ!!」


 流血に意識を朦朧とさせた美沙希はパイソンに抵抗することはできなかった。
右足を引きずりながらパイソンに連れられ、アリーナ席まで連れられて いく。


「がんばれ美沙希っ!」

「バカヤロー!パイソン!何をしけたことしてやがるーっ!!」


 パイソンの再逆転と、美沙希の痛々しい姿に観客から声が飛ぶ。


「うるせーぞ!!ちったぁ黙ってろぉっ!!」


 パイソンは二重の意味で不機嫌だった。一つは見下していた美沙希が自分より
も強くなっていたこと、そして、嫌っている美沙希に対する会場中の声 援に。
 もともと思慮深いほうではないパイソンがさらに短絡的になって2階アリーナ
席の最先端までたどり着く。美沙希も髪を鷲掴んでいるパイソンの腕を とらえ
て何とか離れようとしているが、流血で視界が効かない上に、手がこびりついた
血で滑りなかなか思うように抵抗できない。


「ぴょんぴょん飛び回りやがって・・・・・・。そんなに飛ぶのが好きなら思う
存分ぶっ飛びやがれぇっ!!」


 パイソンはそれまで片手で捕らえていた美沙希の髪を両手で掴み、そのまま勢
いをつけて前方へ振り回す。
 会場中から悲鳴が上がった。振り回された美沙希はそのまま柵を越え、数メー
トル下の観客席に向かって落下していく。


「き、ゃあああああああああああああああああっ!!?」


 視界が効かない分落下する恐怖も大きい。美沙希は悲鳴をあげながら観客席に
向かって落下し・・・・・・。
 下で待ち受けていた同僚たちによって受け止められた。さすがに体勢は崩した
ものの、それでも美沙希を取り落とすことはしなかった。


「ひ、あぁ・・・・・・・・・・・・」


 しっかりと受け止められたとは言っても、美沙希は体を震わせながら動くこと
ができなかった。同僚たちが美沙希に集中していた隙に、今度はパイソ ンが放
胆にも美沙希に向かって飛び降りてくる。


「うぶぅおっ!?」


 まったく予想もしていなかったパイソンのダイブに、同僚たちも対応できず、
パイソンのセントーンは美沙希を押しつぶし、同僚たちも総崩れとなっ た。


「あ、あふぅ・・・・・・えぅう・・・・・・」


 重力加速度のついたパイソンの一撃は美沙希の華奢な腹部を押しつぶし、大ダ
メージを与えていた。半分白くなった目を剥き、舌を突き出しながら胃 の中の
ものを吐き出して悶絶している美沙希の髪を掴み、パイソンがリングに戻る。


「パ、パイソン!・・・・・・!!」


 レフェリーがパイソンに詰め寄って言葉を発しようとするが感情が昂ぶりすぎ
て言葉にならない。パイソンがすさまじい目つきでレフェリーを睨みつ けるが
今のレフェリーにはそれは通じない。パイソンからリングに這いつくばる美沙希
を開放しようとするが。


「ま、待って・・・・・・。まだ、終わらせ・・・・・・ないで・・・・・・」


 当の本人によって止められた。
大流血の上、それまでに受けたダメージは無視できるものではなく、普通の試合
ならレフェリーストップがかかっている。
 だが、美沙希はここで試合を終わらせたくなかった。ここでレフェリーストッ
プを受け入れれば、美沙希の抱いているプロレスそのものが敗北を認め ること
になってしまう。もはや理屈ではなく感情的なものが美沙希を支え、立ち上がら
せていった。


「・・・・・・・・・・・・ちっ、どいつもこいつもよ・・・!!」


 立ち上がる美沙希に向けて観客からの惜しみない歓声が上がる中、脇役へ追い
やられたバイソンが憤激に身を震わせる。気に食わなかった美沙希を一 方的に
叩き潰してのブーイングなら気がよくなることは有っても不快にはならない。だ
が、圧倒的に不利な立場に立たされてもなお、観客は美沙希を支 持している。
 レフェリーがバイソンを美沙希から離させるのにおとなしく従い、リングの上
へと戻るバイソン。そして、何度も場外で膝を付きながらバイソンを 追って
マットに這い上がる美沙希。ロープにすがりつきながらようやくファイティング
ポーズをとった美沙希と余力がたっぷり残っているバイソンがリ ング中央で向
かい合う。


「き、来なさいよ・・・!」


 どれ程打ちのめされても闘志の折れない美沙希がバイソンに挑発をかける。し
かし、それは自分から打って出るほどの余力がもうないことも示してい る。そ
して、バイソンの反応は・・・。


「そうかよ、だったら行くぜぇ!!」


 もう一押しすれば間違いなく倒れるだろう美沙希へと、真正面から襲い掛かっ
ていくバイソン。右拳を大きく振りかぶり、狙いは流血で赤く染め上げ られた
美沙希の顔面。豪腕がうなりを上げて美沙希の顔面へ打込まれていき、一瞬後の
惨劇を予想してしまった観客たちが悲鳴を上げる。


「そう来ると・・・思っていたわ!!」

 がしぃっ!!


 命中すればKO間違い無しのバイソンの渾身のストレート。しかし、美沙希は
右に体を回転させてパンチを避けながら、左の掌底をカウンターでバイ ソンの
あごへ打込んでいく。
 完璧なカウンターが決まり、絶望から希望へ歓声を上げる観客たち。だが、そ
の歓声はあっという間にしぼんでしまった。


「な、え・・・ぐぅ・・・・・・!!」


 完璧なカウンター。しかもあごへ打込まれた一撃は脳を揺らし、バイソンを
KOするはずだった。だが、美沙希の掌に伝わってきたのはまるで巨大な 岩に
打撃を打込んだかのような感触。
 美沙希の左掌底を受けたバイソンは小揺るぎもせず、むしろ攻撃を仕掛けた美
沙希の左手のほうが痛む。


「そう来ると思ってたのはこっちの方だぜ・・・!!」


 美沙希のカウンターが打込まれる瞬間、バイソンの首に力が込められ一回りも
太くなり、掌底を完全に受け止めたのだ。しかも、美沙希の華奢な左手 首はそ
の衝撃に耐え切れずに激痛が走る。


「そ、そんな・・・・・・」

「み、美沙希ーっ!!もう一度だーっ!!」


 左手を押さえてバイソンを睨み上げる美沙希。観客の悲鳴が上がる中、まだ使
える右手でバイソンを捕らえようとするが、それよりも早くバイソンの 左手が
美沙希の喉を鷲掴みにする。


「ぐ・・・うぅ・・・・・・!!」

「は、単純なてめぇのことだから真正面から行けばこう来る事ぐらい予想できた
ぜ。さあ、てめぇの見せ場はもう終わりだ。あとは・・・血反吐を吐い てこの
リングに上がったことを後悔しな!!」


 バイソンの左腕一本で吊り上げられた美沙希が爪先立ちになりながら、両手で
自分の喉からバイソンの手を引き剥がそうともがく。だが、消耗しきっ た美沙
希にはバイソンの握力に抗しきることはできない。
 悔しそうに顔をゆがめる美沙希に凶暴な笑みを漏らしながら、バイソンが一気
に美沙希をコーナーへとたたきつけた。


 どかぁっ!!

「あぐうぅ・・・!!」


 背中を強烈に打ちつけた美沙希が苦痛の声をあげ、両腕がトップロープに引っ
かかる。そしてそのまま振りかぶられたバイソンの右拳が美沙希のボ ディに突
き刺さった!


 ごぽんっ!!

「ごぷぅ・・・・・・!!」


 水の入れられた皮袋をたたくような音が会場に響き、場内の観客が声を失うな
か、場外でフットスタンプを受けたボディに追撃を掛けられた美沙希が 口をパ
クパクと開閉させ、苦悶に端正な顔がゆがむ。
 さらに、二発、三発・・・。


 どぼっ!ぼしゅっ!どずぅっ!!

「ごっ!おぉっ!んあぁっ!」


 観客が息を呑む中、ボディブローの連打で内臓を蹂躙される美沙希の口から血
混じりのよだれが垂れ流される。美沙希の薄い腹筋はすでに突き破ら れ、コー
ナーを背にしているために衝撃は全て美沙希の華奢な体に浸透する。


(し、死んじゃう・・・・・・殺、されちゃう・・・・・・)


 限界を超えたダメージを受け続ける美沙希の脳裏に浮かぶのは死の一文字。会
場の観客が悲鳴を上げて顔を背ける中、ひときわ大きな動作で放たれた ボディ
アッパーで美沙希の大きく開かれた口から血塊が吐き出され、バイソンの顔を塗
らした。


「ひゃはは!いいざまじゃねぇか!!どうする?どうか助けてくださいって命乞
いをすれば楽に終わらせてやるぜぇ?」


 顔を美沙希の返り血で赤く染め上げて赤鬼の形相となったバイソンが息絶え絶
えの美沙希に顔を近づける。だが、美沙希は・・・。


「・・・・・・ぃ・・・・・・。・・・ける、もん・・・・・・」


 茫洋と意識も定かではないまま、美沙希が顔を上げてバイソンを睨みつける。
既に限界を超えたダメージを受けている美沙希は視界がかすんで至近距 離に居
るバイソンの顔もまともに見えない。だが、その瞳からは闘志がまだ折れていな
いことを感じさせた。


「て・・・・・・めぇ・・・・・・!!」


 憤激に体を震わせるバイソン。これまで、彼女に打ちのめされてきた相手は例
外なく這いつくばって命乞いをしてきた。しかし、この目の前で血まみ れに
なっている女は違った。


「み、美沙希・・・・・・が、がんばれーっ!!」

「負けるな!!まだ闘えるだろ!!」


 闘志を失わず、暴力に耐える美沙希の姿に、静まり返っていた観客席から次第
に声援が飛び始める。その声は会場の一角から全体へ波及し、声援は美 沙希一
色に。


「ふざけやがって・・・・・・ふざけやがって!!あたしに負けてるてめぇ
が!!なに調子こいてやがんだあああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」


 どむっ!ずんっ!どぼ!ぼすっ!!


 会場を埋め尽くす美沙希への声援、そして自分に屈さない目の前の相手に狂乱
したバイソンがボディブローの連打を放つ。美沙希の細いウェストが陥 没し、
命の危険性を感じさせるほどの強烈なラッシュ。
 美沙希の目が裏返って白目を剥き、大きく開かれた口から血の泡が吹き零れ
る。足元には血の水溜りが広がっていき、そこでようやく我に返ったレ フェ
リーが試合中止のゴングを求めた。


 カンカンカンカンカ〜〜〜〜ン!!!!


 会場のスタッフが総出でリングに上がり、ゴングが鳴らされても殴打をやめな
いバイソンを押さえ込む。ラッシュを喰らい続けた美沙希は既に意識も 無いま
まぐったりとコーナーに垂れ下がっていた。そのまま担架に載せられて退場して
いく美沙希へバイソンが吼え続ける。


「逃げるつもりか、てめぇ!!ふざけんなよぉっ!!」


 試合結果は美沙希の反則勝ち。窮地に立たされても決して折れない闘志を見せ
付けた美沙希の人気は更に上がり、結果として団体上層部の思惑は当 たった
が、美沙希は入院して長期欠場となった。
 そして、復帰戦ではバイソンの乱入を受けて無効試合となり、それを契機とし
て時代は美沙希をトップとしたベビーフェイスとバイソン率いるヒール 軍の抗
争へ突入することになる。

inserted by FC2 system